リンカーンはなぜ「正直者エイブ」と呼ばれたのか
独学と弁護士経験を経て第16代大統領となったリンカーン。奴隷解放宣言とゲティスバーグ演説、そして暗殺までの歩みを事実に基づいて振り返る。
リンカーンが「正直者エイブ(Honest Abe)」や「偉大な解放者(the Great Emancipator)」と呼ばれたのは、弁護士時代の誠実な仕事ぶりと、奴隷解放という歴史的決断の両方に由来する二つ名である。この記事では、彼の生涯を事実に沿って整理し、そこから生まれた英語表現の学びどころも紹介する。
丸太小屋から法律家への道
エイブラハム・リンカーンは1809年2月12日、ケンタッキー州の一部屋しかない丸太小屋で生まれた。1816年、7歳のときに家族は土地の権利をめぐる問題から逃れるためインディアナ州へ移住している。そのわずか2年後の1818年、母ナンシー・ハンクスが「ミルク病」で亡くなった。リンカーンが9歳のときのことである。
リンカーンの教育はほとんど独学によるものだった。15歳までに巡回教師から受けた正規の教育は合計でも12か月に満たなかったという。1830年、再びミルク病の流行を恐れた一家はイリノイ州へ移住する。ここから彼は弁護士としての道を歩み始め、1836年には弁護士となりスプリングフィールドに移り住んだ。反対尋問に優れた有能な弁護士として評価を受けるまでになった。
家庭と政治家としての歩み
1842年11月4日、リンカーンはスプリングフィールドでメアリー・トッドと結婚した。二人の間にはロバート、エドワード、ウィリアム、トーマスの4人の息子が生まれたが、成人まで生き延びたのは長男ロバート・トッド・リンカーンだけだった。大統領になる前、リンカーンは弁護士業のかたわらイリノイ州の州議会議員も務めている。
大統領としての決断と南北戦争
1860年の選挙に勝利し、リンカーンは第16代アメリカ合衆国大統領となった。これは共和党から初めて選出された大統領でもあった。1861年に大統領に就任すると同時に、南軍がフォート・サムターを攻撃し、南北戦争が始まった。同年4月、リンカーンは戦争の混乱の中で人身保護令状の効力を停止する決断を下している。
戦争のさなか、リンカーンは合衆国を率いて南軍を打ち破った。1863年1月1日には奴隷解放宣言を発し、反乱状態にある州の奴隷を自由な身であると宣言した。同年11月19日には、アメリカ史上最も有名な演説の一つとされるゲティスバーグ演説を行っている。
さらにリンカーンは、1865年に奴隷制度を廃止する合衆国憲法修正第13条の成立を推進した。しかし同年4月15日、ワシントンD.C.のフォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースにより暗殺されるという結末を迎える。
後世の評価
大統領在任中の功績から、リンカーンは大衆調査でも学術的な評価でもしばしばアメリカ史上最も偉大な大統領の一人に数えられている。丸太小屋で生まれ、ほぼ独学で学び、弁護士として実務経験を積み、そして国家を分断から救おうとした彼の生涯は、今も多くの人に語り継がれている。
英語学習への手がかり
リンカーンの生涯を題材にすると、いくつかの英語学習のポイントが見えてくる。まず、19世紀アメリカの開拓地での暮らしを描写する語彙は、当時の生活様式を理解する助けになる。また、自由州と奴隷州の違いを英語で説明する練習は、南北戦争の背景を掴むうえで有効である。ゲティスバーグ演説のような民主主義に関する重要演説の言葉遣いを学ぶことも、格式ある英語表現を身につける良い機会となる。
- 奴隷制度廃止に関する歴史用語と表現を整理する
- 南北戦争に関する基本用語を英語で押さえる
- 弁護士としてのキャリア形成について英語で議論してみる
- 日本語での人名表記の変遷(リンコルン、リンカーン、リンカンなど)を調べる