アラン・チューリングの生涯を貫く3つの年—1936・1945・1952年
暗号解読とコンピュータ科学の礎を築いたアラン・チューリング。1936年の論文、1945年の勲章、1952年の逮捕という3つの年から、その業績と悲劇をたどる。
アラン・チューリングの生涯を理解する鍵は、1936年・1945年・1952年という3つの年にある。1936年は彼が計算可能性という概念を数学の言葉で定式化した年であり、1945年は戦時中の功績が認められた年であり、そして1952年は同性愛を理由に逮捕され、その2年後に死へと至る転落の始まりとなった年である。1912年6月23日に生まれ、1954年6月7日に41歳で世を去ったチューリングの短い人生は、この3つの年に凝縮されている。
1936年:計算可能性の理論を打ち立てた論文
チューリングはイギリスの数学者、暗号研究者、計算機科学者である。彼は1931年にケンブリッジ大学キングス・カレッジに進学し、1935年には同カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれるという早熟な才能を示した。そして1936年5月28日、論文「計算可能数、ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」を提出する。この論文でチューリングは、計算という行為そのものを「チューリングマシン」という抽象的な機械として形式化し、計算可能性の理論を確立した。さらに、任意のチューリングマシンを模倣できる「万能チューリングマシン」という概念も提示している。この万能機械の発想は、後にプログラム内蔵式コンピュータという現代のコンピュータの原理そのものにつながっていく。1938年にはプリンストン大学で博士号を取得し、理論家としての地位を固めた。
チューリングの才能の萌芽は、すでに16歳のシャーボーン・スクール時代に見られる。彼はアインシュタインの文章を理解しただけでなく、そこに記載されていないニュートン力学についてまで自ら推論を進めていたという。1926年、14歳で同校に入学して以来、彼の思考は常に既存の枠組みの外側へと向かっていた。
1945年:秘匿されたOBE勲章
1939年、第二次世界大戦が始まると、チューリングはブレッチリー・パークでドイツの暗号を解読する仕事に従事した。彼はHut 8の責任者として、ドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門を率いた。この任務のためにチューリングが開発したのが、エニグマ暗号機を解読するための機械「bombe」である。Uボートの暗号は連合国の輸送船団を脅かす致命的な脅威であり、その解読は戦局そのものを左右する仕事だった。1942年11月には、暗号に関する情報交換の一環としてアメリカを訪れてもいる。
ブレッチリー・パークでの日常には、意外な逸話も残っている。チューリングは花粉症に悩まされ、ガスマスクを着けて自転車で通勤していたという。暗号解読という極度に緊張を強いられる仕事の傍らで、こうした人間味のある姿も見せていた。また1941年には同僚のジョーン・クラークに結婚を申し込んだが、自らが同性愛者であることを告白し、別れることを決心している。この個人的な葛藤は、後年の悲劇を予感させる出来事でもあった。
1945年、チューリングは戦時中の功績によりOBE(大英帝国勲章)を授与された。しかし、その業績は長年秘密にされたままだった。暗号解読という仕事の性質上、彼が何を成し遂げたのかは国家機密として封印され、世に知られることはなかったのである。戦後、チューリングはイギリス国立物理学研究所に移り、プログラム内蔵式コンピュータの初期設計ACEに携わった。そして1947年、マンチェスター大学に移り、Manchester Mark Iのソフトウェア開発に従事する。この時期、チューリングは形態形成の化学的基礎についての論文も書き、ベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を理論的に予言していた。暗号、コンピュータ、そして化学反応の予測という、まったく異なる分野を横断する知性がそこにあった。
1952年:逮捕、そして1954年の死
1952年、チューリングは同性愛の罪で逮捕され、転向療法としてホルモン治療を受けることになった。戦時中に国家のために暗号を解読し、コンピュータ科学の基礎を築いた人物が、当時の法律のもとで犯罪者として扱われたのである。そしてその2年後、1954年6月7日、チューリングは青酸中毒により死去し、検死により自殺と断定された。41歳という若さだった。
この出来事から半世紀以上が経った2009年9月10日、イギリス首相ゴードン・ブラウンは、戦後のイギリス政府によるチューリングへの扱いについて公式に謝罪した。国家のために働いた一人の科学者が、その私生活を理由に迫害され、命を絶つに至った経緯は、後世において大きな反省の対象となった。
マラソンランナーとしての一面
チューリングの人生には、暗号解読者・数学者としての顔とは別に、アスリートとしての一面もあった。彼は1948年ロンドンオリンピックのマラソン代表選考に参加し、5位という結果を残している。そのベストタイムは2時間46分3秒であり、決して片手間の趣味ではなく、真剣にトレーニングを積んでいたことがうかがえる。頭脳労働の対極にある持久走という営みに、彼がどれほどの集中力を注いでいたかを物語るエピソードである。
3つの年が残したもの
1936年の論文は、コンピュータという概念そのものを生み出す理論的基盤となった。1945年のOBEは、戦争の勝敗を左右した功績が長く秘匿されたことの象徴である。そして1952年の逮捕は、社会がその功労者をどう扱ったかという苦い事実を今に伝えている。この3つの年をたどることで、アラン・チューリングという人物の栄光と悲劇の両面が見えてくる。