ブラム・ストーカーとは何をした人?『吸血鬼ドラキュラ』の作者の生涯を、劇場の仕事と年表でたどる
ブラム・ストーカーは1847年ダブリン生まれのアイルランドの作家で、1897年に『吸血鬼ドラキュラ』を発表しました。公務員時代、劇場での仕事、死後の出来事を年表で整理し、英語の練習問題も付けます。
結論:アイルランド出身の作家で、劇場の人でもあった
ブラム・ストーカーは、1847年11月8日にダブリンで生まれたアイルランドの作家です。1897年に怪奇小説『吸血鬼ドラキュラ』を発表しました。名前は作品とともに語られることが多い人物ですが、仕事は作家だけではありませんでした。この記事では、確認できる事実だけを年表の順に整理します。
年表の骨組みは三つです。まず1847年11月8日に、ダブリンのマリノ・クレセントで生まれました。次に1897年に『吸血鬼ドラキュラ』を発表し、1912年4月20日にロンドンで亡くなりました。この三点の間に何があったのかを、以下で順に見ていきます。
幼少期から大学、公務員へ
幼少期は原因不明の病で寝たきりでしたが、後に快復しました。ダブリン大学トリニティ・カレッジには1864年から1870年まで在籍し、アスリートとしても優秀な成績を収めました。1870年に大学を卒業し、学士号(BA)を取得しています。幼い頃の病気と学生時代の活躍という対照的な二つの姿が、同じ人物の経歴に並んでいます。
大学卒業後は、父と同じくアイルランド行政の公務員になりました。学生時代には、友人のマウンセル博士を通じて演劇に興味を持っていました。公務員と演劇という二つの流れが、この時期にすでに見えています。
アーヴィングとの出会いとライシアム劇場
1876年12月、俳優ヘンリー・アーヴィングのハムレットを好意的に評価したことが、二人の出会いのきっかけになりました。1878年にはフローレンス・バルコムと結婚しています。1879年12月31日には、息子のアーヴィング・ノエル・ソーンリー・ストーカーが誕生しました。出会いから結婚、子の誕生までが数年のうちに続いた形です。
ストーカーは、アーヴィングが所有するライシアム劇場の支配人代理となり、後に営業部長として27年間在職しました。生前にはアーヴィングの個人秘書も務めていました。秘書と劇場経営という二つの役割を、同じ俳優のもとで担っていたことになります。役割ごとに分けて書き出すと、仕事の全体像がつかみやすくなります。
ストーカーはアーヴィングの公演に同行して世界各地を訪れ、アメリカを特に気に入りました。1905年にヘンリー・アーヴィングが亡くなります。翌1906年には、回顧録『ヘンリー・アーヴィングの思い出』を出版しました。二人の関係を知る手がかりとして、この回顧録の年を年表に入れておくとよいでしょう。
『吸血鬼ドラキュラ』はどう書かれたか
ストーカーは1895年、キルマーノック・アームズ・ホテルに滞在中に『吸血鬼ドラキュラ』の執筆を始めました。作品の発表は1897年です。また、1892年から1910年までスコットランドのクルードン湾に定期的に滞在し、執筆の大部分をそこで行いました。執筆の場所は、出典の記述を一つずつ確かめながら書き留めるのが安全です。
『ドラキュラ』は書簡体小説です。日記・電報・手紙・航海日誌・新聞の切り抜きなどで構成されています。一人の語り手が筋を語る形ではなく、記録の断片を並べて物語が進みます。この構成を本文で確かめ、気づいた点を書き出してみると理解が深まります。
ストーカーは、代表作の舞台となった東欧を訪れたことはありませんでした。1890年の訪問がドラキュラのインスピレーションの一部だったと指摘されています。ヴラド3世をドラキュラのモデルとする説は、研究者エリザベス・ミラーらによって俗説として否定されています。モデル説は広く知られていますが、出典の記述に沿って確かめる必要があります。
確かな点と、根拠がないとされる説
一方、フリーメイソンや黄金の夜明け団の会員であったという説については、根拠はないとされます。人物の経歴では、よく語られる説と確認できる事実を分けて読むことが欠かせません。メモを取るときも、説には「説」と書き添えておくと混ざりません。
ストーカーは1912年4月20日にロンドンで亡くなりました。死因は、運動失調症と死亡診断書に記されています。死因について、診断書に記された内容以上のことは、この記事では述べません。年表に書くときは、診断書の記述として出典を添えるのが確実です。
死後に残されたもの
1914年、妻フローレンスは未発表作を集めた短編集『ドラキュラの客』を刊行しました。1922年には『吸血鬼ノスフェラトゥ』という無断翻案映画が作られました。この映画に対し、フローレンスは著作権侵害で訴訟を起こしました。1925年には全面勝訴しています。
1988年に創設されたブラム・ストーカー賞は、アメリカのホラー作家協会が授与する賞です。創設時期と授与団体は、出典で確認して書き留めておきたい項目です。死後に残された出来事は、刊行、訴訟、賞の三つに分けると整理できます。それぞれに年を添えると、時系列の流れも見やすくなります。
やってみよう:年表と英語の一文
学習の第一歩として、ストーカーの生涯を年表にまとめてみてください。出来事ごとに出典を書き添えると、事実と説を混ぜずに済みます。さらに、アーヴィングのもとで担った役割を、秘書と劇場経営に分けて書き出すのもよい練習です。時間があれば、フリーメイソン説が根拠がないとされる理由を、自分の言葉で書いてみましょう。
練習問題です。次の事実を、英語の一文で書いてみましょう。「ストーカーは1847年にダブリンで生まれ、1897年に『吸血鬼ドラキュラ』を発表した。」例の答案は次のとおりです。Bram Stoker was born in Dublin in 1847, and he published Dracula in 1897.これは練習用に作った例文で、ストーカー本人の発言ではありません。
解説です。was born は「生まれた」を表す受け身の形で、場所は in Dublin、年は in 1847 と書きます。二つの事実は and でつなぎ、二つ目の主語は he に置き換えています。同じ型で、1912年に亡くなった事実も英語で書いてみてください。書いた文は、年と場所を出典と照らして確かめましょう。