エクトル・ベルリオーズとは何をした人?『幻想交響曲』で知られるフランス・ロマン派作曲家の生涯
ベルリオーズは『幻想交響曲』で知られるフランスのロマン派作曲家。医学から音楽へ転じた歩み、ローマ賞、演奏旅行、晩年までを年表でたどり、英語の練習問題も添えます。
ベルリオーズはどんな人か
ベルリオーズはフランスのロマン派の作曲家で、『幻想交響曲』で知られる。 1803年12月11日にフランス南部のラ・コート=サンタンドレで生まれた。 亡くなったのは1869年で、場所はパリ、65歳だった。 この記事では、その間の歩みを順にたどる。
ベルリオーズは作曲だけの人ではなかった。評論や執筆を続け、生計を補うために音楽ジャーナリズムに関わった。 肖像はかつてフランスの10フラン紙幣に描かれていた。
医学から作曲家の道へ
ベルリオーズは医師の父の期待で医学の道に進み、パリの医科大学で学んだ。 1821年にバカロレアに合格し、同年パリへ移った。 年表では、この1821年がパリでの学びの出発点になる。
パリでベルリオーズはグルックのオペラに感銘を受け、作曲家になる決意を固めた。 1823年にはパリ音楽院でル・シュウールに作曲とオペラを学んだ。 父の期待で選んだ医学と、自分で固めた作曲家への決意が、パリでの最初の数年に並んでいる。
ローマ賞と『幻想交響曲』
ベルリオーズは1830年にローマ賞を受賞するまで、四度の挑戦を重ねた。 受賞は一度の挑戦で得られたものではなく、挑戦の積み重ねの先にあった。
『幻想交響曲』は1830年12月5日にアブネックの指揮で初演され、大成功を収めた。 つまり1830年には、ローマ賞の受賞とこの初演が同じ年に重なっている。
ベルリオーズは女優ハリエット・スミッソンに出会い、彼女を題材に『幻想交響曲』の思いを育てた。 二人は1833年に結婚したが、のちに関係は破綻した。
大作、不評、そして演奏旅行
ベルリオーズは1837年に『死者のための大ミサ曲』(レクイエム)を完成させた。 翌1838年、オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』が初演されたが、不評に終わった。 大作の完成の翌年に、オペラでの苦い結果が来たことになる。
ベルリオーズは1842年から演奏旅行を始め、ドイツなどで各地の演奏会を行った。 1847年のロシア演奏旅行ではサンクトペテルブルクとモスクワで演奏会が成功し、大金を得た。
1856年にはフランス学士院会員に選ばれ、生活が安定した。 演奏旅行から学士院会員まで、年表を追うと活動の場が国外へ広がり、のち生活が落ち着いていく流れが見える。
晩年の作品と著作
オペラ『トロイアの人々』は5幕の大作で、生前には全曲が上演されなかった。 作曲した本人が、全曲の上演を見ないまま世を去ったことになる。
オペラ『ベアトリスとベネディクト』は、シェイクスピアの『空騒ぎ』に基づき、1862年に初演された。 原作が英国の劇作家の作品である点は、外国語の学習にもつながる手がかりになる。
ベルリオーズは『近代楽器法と管弦楽法』を著し、後の時代に影響を与えた。 作品だけでなく、書かれた理論書も彼の仕事の大きな柱である。
練習問題:年表を英語で言ってみる
ここからは読者の皆さんが試す番です。次の日本語を英語にしてみてください。「ベルリオーズは1830年にローマ賞を受賞するまで、四度の挑戦を重ねた。」なお、以下の例文は学習用に作ったもので、ベルリオーズ本人の発言ではありません。
例文の答えの一つは Berlioz tried four times before he won the Rome Prize in 1830. です。before は「〜するまでに」を表し、tried four times で挑戦の回数を示しています。
次に、「1821年にパリへ移った」という事実を、同じ形で英語にしてみてください。年表を3行にまとめて書き出し、日付ごとに英語の一文を添える練習も、してみてはいかがでしょうか。