カントの「定言命法」とは?わかりやすく学ぶカントの倫理と生涯
カントは、道徳は理性から生まれると考えました。みんなが従ってもよいと思えるルールだけで行動し、人を単なる道具として扱うな、という教えをやさしく解説します。
カントの「定言命法」とは、ある行為が道徳的に正しいかどうかを確かめるためのテストで、簡単に言えば二つのことを求めます。一つ目は、自分の行動の原則が、すべての人の従う普遍的な法則になってもよいと思えるときだけ、その原則で行動すること。二つ目は、自分も他人も含めて、人間を単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱うことです。 ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724–1804年)は啓蒙思想の中心人物の一人で、このルールは理性そのものから生まれるので、欲求や文化に関係なくすべての理性的な存在を縛ると考えました。
ケーニヒスベルクの静かな人生
カントは1724年、プロイセンのケーニヒスベルクに生まれ、生涯のほとんどをそこで過ごしました。この町は今、ロシアのカリーニングラードです。 毎日決まった時間に散歩するので近所の人がそれで時計を合わせた、という話が有名ですが、偉人の逸話によくあるように、楽しい言い伝えとして受け取るのがよいでしょう。確かなのは、その静かな暮らしから哲学史上もっとも影響力のある本がいくつも生まれたことです。若いころは科学にも取り組み、太陽系が回転するガスの雲から生まれたとする「星雲説」の初期の形も唱えています。
馬具職人の息子
カントは1724年4月22日に生まれ、「エマヌエル」と洗礼を受けましたが、のちにヘブライ語を学んでから綴りを「イマヌエル」に改めました。 父ヨハン・ゲオルク・カントはメーメル出身の馬具職人で、母はアンナ・レギーナ・ロイターといいました。カントは九人きょうだいの四番目で、大人になれたのは六人でした。 家庭では敬虔主義の価値観が重んじられ、初期の学校教育もラテン語と宗教を中心にした厳しいものでした。 フリードリヒ学院を1740年夏の終わりに卒業すると、同じ年、16歳でケーニヒスベルク大学に入学し、マルティン・クヌッツェンのもとでニュートンの科学に出会いました。
家庭教師から教授へ
1746年、父が脳卒中で亡くなり、カントの学業は中断されます。 1748年8月の少しあとにケーニヒスベルクを離れ、1754年8月に戻るまで、周辺の町で住み込みの家庭教師として働きました。 そのあいだの1749年に、最初の哲学の著作『活力の真の測定についての考察』を出しています。 1755年に大学で講義をする資格を得て、七年戦争中のロシア占領期(1758–1762年)には、ロシアの将校たちを教える仕事で暮らし向きがよくなりました。 1758年12月には女帝エリザヴェータに論理学・形而上学の講座を願い出ましたが、別の候補者が選ばれています。 念願の論理学・形而上学の正教授になったのは1770年、46歳のときでした。 カントは生涯結婚しませんでした。二度ほど結婚を考えたものの、二度とも決断が遅すぎたといわれます。
思考の「コペルニクス的転回」
1781年の『純粋理性批判』は、スコットランドの哲学者ヒュームの懐疑論への応答でもありました。 カントは発想を逆転させます。心が世界を写し取るのではなく、心が経験を積極的に組み立てているのだ、と。空間と時間は、私たちが何かを知覚するための枠組みであり、私たちが知るのは「物自体」ではなく、私たちに現れたものだというのです。カントはこれを、地球ではなく太陽を中心に置いたコペルニクスの転換にたとえました。
理性から生まれる倫理
『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785年)と『実践理性批判』(1788年)で、カントは感情や結果ではなく理性こそが道徳の源だと主張しました。 「試験に受かりたいなら勉強せよ」のように目的しだいの命令を「仮言命法」、無条件に従うべき命令を「定言命法」と呼びます。
たとえば、お金を借りるためにうその約束をしたいとします。誰もが都合のよいときにうその約束をする世界を望めるでしょうか。そんな世界では誰も約束を信じないので、その計画自体が成り立ちません。だからうその約束は失格です。 また、人の助けを借りること自体は禁じられていません。店員や先生に頼るのはかまいませんが、だましたり強制したりして、相手が同意できない形で「単なる道具」として扱うことが禁じられるのです。
「あえて賢くあれ」
1784年の短い論文「啓蒙とは何か」で、カントは啓蒙を「人間が自ら招いた未成年状態から抜け出すこと」、つまり他人の指図なしに自分の頭で考えられない状態から抜け出すことだと説明し、ラテン語の「サペーレ・アウデ(あえて賢くあれ)」を標語にしました。 晩年には『判断力批判』(1790年)で美を論じ、『永遠平和のために』(1795年)では共和制国家の連合を提案しています。 1804年に亡くなりましたが、『実践理性批判』の結びにある「わが上なる星空と、わが内なる道徳法則」という言葉は今もよく引用されます。
検閲との衝突と最期の言葉
晩年のカントは、国王の検閲ともぶつかりました。1792年、『たんなる理性の限界内の宗教』の一部を雑誌に載せようとしたところ、国王の検閲委員会が反対しました。 そこでカントは神学の検閲を避けるため、イェーナ大学を通じて本として出版し、国王から叱責を受けます。 1794年に第2版が出ると、宗教について二度と出版も公の発言もしないよう命じる勅令が下されました。カントはのちに『諸学部の争い』(1798年)の序文でこの件に応えています。 1804年2月12日、カントはケーニヒスベルクで79歳で亡くなりました。最期の言葉は「これでよい(Es ist gut)」だったと伝えられています。 遺体ははじめ大聖堂の中に葬られ、1880年に新ゴシック様式の礼拝堂に移され、現在の霊廟は1924年に完成しました。
カントで覚える日本語表現
| 表現 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| 自分の頭で考える | 人任せにせず自分で判断する | カントは自分の頭で考えよと説いた。 |
| 人を利用する | 自分の得のために人を使う | 友達を利用してはいけない。 |
| みんながそうしたら? | 行動が公平かを確かめる問い | 列に割り込む?みんながそうしたら? |
| 筋を通す | 原則を曲げない | 損をしても筋を通す。 |
| 勇気を出す | 思い切って行動する | 間違いを恐れず勇気を出して話そう。 |
練習問題: 宿題の答えを写すなど身近な行動に「みんながそうしたら?」のテストを当てはめ、「筋を通す」「自分の頭で考える」を使って三文で書いてみましょう。