キュリー夫人の死因は何だったのか?放射線と生きた科学者の最期とノート

キュリー夫人の死因は何だったのか?放射線と生きた科学者の最期とノート

キュリー夫人は1934年、再生不良性貧血で亡くなりました。長年の放射線被ばくが原因とみられます。今も放射能を帯びるノートなど、その生涯を解説します。

キュリー夫人(マリー・キュリー)は、1934年7月4日、フランスのパッシーにあるサンセルモ療養所で、66歳で亡くなりました。死因は再生不良性貧血で、長年にわたる放射線被ばくが原因だった可能性が高いとされています。 放射能という現象を研究し、その言葉まで生み出した科学者が、まさにその放射線によって命を縮めたことになります。当時はまだ、放射線の危険性がほとんど理解されていませんでした。

ワルシャワに生まれた少女

マリー・キュリーは1867年11月7日、当時ロシア帝国の支配下にあったワルシャワで、マリア・スクウォドフスカとして生まれました。教師の両親のもと、5人きょうだいの末っ子でした。 当時、女性は通常の大学に入学できなかったため、彼女は女性も受け入れていた非合法の「移動大学」で学びました。

さらに、姉ブロニスワヴァとある約束を交わします。マリアが住み込みの家庭教師として働いて姉のパリでの医学の勉強を支え、その後、姉がマリアの勉強を支えるという約束でした。 1891年末、マリアはついにパリへ渡り、パリ大学で物理学・化学・数学を学びます。1893年に物理学の学位、1894年に2つ目の学位を取得しました。

ポロニウムとラジウムの発見

1894年、彼女は物理学者ピエール・キュリーと出会い、1895年に結婚しました。 夫婦は1898年7月にポロニウムを、同年12月にラジウムを発見したと発表し、「放射能(radioactivity)」という言葉も生み出しました。 ポロニウムという名前は、祖国ポーランドにちなんだものです。当時のポーランドは分割されて独立国家ではなく、マリーはこの名前で祖国の状況に注目を集めたいと考えていました。

その作業は地道で過酷なものでした。1898年4月14日、夫婦は100グラムのピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)を量り、手ですりつぶすところから始めます。目的の物質があまりに少ないため、やがて何トンもの鉱石を処理することになるとは、まだ知りませんでした。 研究場所はもと解剖室だった小屋で、換気が悪く、雨漏りさえしました。1902年、1トンのピッチブレンドから取り出せた塩化ラジウムは、わずか10分の1グラムでした。 1903年6月、マリーはパリ大学で博士号を取得しています。 この間、1897年に長女イレーヌが、1904年12月に次女エーヴが生まれました。

ラジウムの名は、ラテン語で「光線」を意味する radius に由来します。エネルギーを光線のように放出することから名づけられました。 1910年には、マリーと化学者アンドレ=ルイ・ドビエルヌが、ラジウムを純粋な金属として取り出すことに成功しています。

2つのノーベル賞

1903年、マリーはピエール、アンリ・ベクレルとともにノーベル物理学賞を受賞し、女性として初めてのノーベル賞受賞者となりました。 しかし1906年4月19日、ピエールはパリの路上で馬車にはねられて亡くなります。マリーは夫の講座を引き継ぎ、パリ大学で初の女性教授となりました。

1911年にはノーベル化学賞を受賞し、ノーベル賞を2度受賞した最初の人物になりました。異なる2つの科学分野で受賞したのは、今もマリーとライナス・ポーリングだけです。

同じ1911年、マリーは物理学者ポール・ランジュバンとの関係をめぐって新聞から激しく攻撃され、自宅の前には群衆まで押し寄せました。ノーベル委員会の委員長は授賞式への出席を思いとどまらせようとしましたが、彼女はそれでも出席しました。 科学の成果と私生活を切り離して評価されない時代に、彼女は自分の仕事で答えを示したのです。

1914年にはパリにラジウム研究所が建てられ、マリーはそのキュリー研究室を率いました。この研究所からはその後も4人のノーベル賞受賞者が生まれ、その中には娘イレーヌと、その夫フレデリック・ジョリオ=キュリーも含まれています。

放射線の危険が知られていなかった時代

20世紀初めには、ラジウムは化粧品やせっけん、さらには飲み物にまで加えられていました。 時計の文字盤に夜光塗料を塗る女性工員たちは、筆先をなめるように指示され、ただれや貧血、骨のがんなど深刻な健康被害に苦しみました。 ラジウムはカルシウムと性質が似ているため、体内に入ると骨にたまりやすいのです。

マリー自身も、こうした危険から逃れられませんでした。第一次世界大戦中には、「プチ・キュリー」と呼ばれる移動式X線装置を開発し、赤十字の放射線部門を指揮して野戦病院を支えました。 戦争の最初の一年だけで、20台の移動式放射線車と約200か所の放射線設備の設置を指揮し、17歳のイレーヌも母を手伝いました。彼女のX線装置で診察を受けた負傷兵は、100万人を超えると推定されています。 戦後の1921年にはアメリカを回って研究資金を集め、ホワイトハウスでハーディング大統領から、アメリカで集められた1グラムのラジウムを贈られました。 1932年には故郷ワルシャワにもラジウム研究所が開かれ、姉ブロニスワヴァが所長になっています。 研究でも戦場でも、彼女は放射線のすぐそばで働き続けたのです。

今も放射能を帯びるノート

マリー・キュリーの研究ノートは、今も放射能を帯びており、その状態は千年以上続くと見られています。 彼女が残した記録そのものが、放射線と共に生きた人生を物語っていると言えるでしょう。

また彼女は、ほかの研究者が自由に研究できるよう、ラジウムを分離する方法の特許をあえて取りませんでした。 1995年には遺骨がパリのパンテオンに移され、女性として初めて自らの功績によってそこに葬られました。 放射能の単位「キュリー」や、元素番号96の「キュリウム」にも、その名が残っています。

キュリー夫人で学ぶ日本語の表現

表現 読み方 意味 例文
命を縮める いのちをちぢめる 寿命を短くする 無理な働き方は命を縮める。
約束を交わす やくそくをかわす お互いに約束する 姉と大切な約束を交わした。
道を切り開く みちをきりひらく 困難を乗り越えて新しい道を作る 彼女は女性科学者の道を切り開いた。
あえて あえて 難しいと知りながら、わざと 彼女はあえて特許を取らなかった。
引き継ぐ ひきつぐ 前の人の仕事を受け継ぐ 夫の研究を引き継いだ。

練習: キュリー夫人と姉のように、自分の語学学習について「私は○○します。そのかわりに○○します。」という約束の文を日本語で2つ作ってみましょう。

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