織田信長は何をした人?「尾張の大うつけ」から天下統一への道
織田信長は「うつけ」と笑われた若者から、鉄砲・楽市楽座・容赦ない戦いで天下人目前まで上りつめ、1582年に本能寺で家臣に討たれました。生涯をわかりやすく解説します。
織田信長(1534–1582年)は、百年以上続いた戦国の世で日本の再統一を始めた戦国大名で、豊臣秀吉、徳川家康と並ぶ「三英傑」の最初の一人とされます。 鉄砲の大量運用に代表される軍事の革新、経済改革、そして有力な仏教勢力さえ容赦なく打ち倒す冷徹さを組み合わせて勢力を広げました。 しかし天下統一が目前に見えたそのとき、自らの家臣に裏切られます。
「尾張の大うつけ」
信長は1534年、尾張国の武将の子として生まれました。 当時は戦国時代で、京都の将軍は実権を失い、各地の大名が争いを続けていました。若いころの信長は型破りなふるまいから「尾張の大うつけ」と呼ばれ、多くの人に軽く見られていました。 それが大きな見込み違いだったことは、すぐに明らかになります。
父の葬儀と、家督をめぐる争い
1548年か1549年、信長は父・織田信秀と美濃の斎藤道三との和睦の証として、道三の娘・濃姫と結婚しました。 1551年に父の信秀が急死すると、信長は葬儀の場で抹香を位牌に投げつけたと伝えられており、この逸話は「うつけ」の評判をいっそう強めました。 父の死後には跡目争いが起こり、信長は約1,000の兵で反対派をけん制しましたが、1552年には寝返った山口教継・教吉父子に赤塚の戦いで敗れています。 1553年には、側近で守り役でもあった平手政秀が切腹しました。信長をいさめるためだったと一般に信じられていますが、本当の理由ははっきりしません。 1557年には弟の信行が謀反をくわだてたため、信長は病気を装って見舞いに来た信行とその供を討ち取りました。 若き日の信長は、外の敵より先に、身内との争いを勝ち抜かなければならなかったのです。
1560年、桶狭間の戦い
この年、大大名の今川義元が大軍で尾張に攻め込みました。信長の兵ははるかに少なかったものの、桶狭間で奇襲をかけ、義元を討ち取ります。 この勝利で信長の名は一気に高まりました。その後、徳川家康と同盟を結び、尾張と美濃を平定すると「天下布武」の印を使い始め、天下統一の志を示しました。
美濃を取り、「岐阜」と名づける
1567年、信長は美濃の稲葉山城を攻め落とし、城と城下町の名を「岐阜」と改めました。「天下布武」の印を使い始めたのもこのころです。 妹のお市を北近江の浅井長政に嫁がせて同盟を固めたのも、伊勢や近江へ勢力を広げていたこの時期のことでした。 地名を自ら名づけ直すという行動には、古い秩序を塗り替えて新しい時代を始めようとする信長の意志がよく表れています。
京都と室町幕府の終わり
1568年、信長は足利義昭を奉じて京都に入り、将軍に就けました。しかし関係はやがて悪化し、1573年に義昭を京都から追放して、室町幕府は事実上終わりを迎えます。
容赦ない戦い
朝倉氏・浅井氏を滅ぼし、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。長年戦った一向一揆の拠点・石山本願寺も1580年に明け渡させています。 こうした行動は当時の人々に衝撃を与え、今も信長の評価が分かれる理由になっています。
姉川と長島
1570年、信長は家康とともに姉川のほとりで浅井・朝倉の連合軍を破り、敵は小谷城へ退きました。 妹の嫁ぎ先だった浅井家は、こうして敵となったのです。伊勢の長島では一向一揆と長く戦い、1573年の二度目の攻撃は信長の大きな敗北の一つとなりました。 1574年の三度目の攻撃では、九鬼嘉隆の水軍による封鎖も生かして拠点を包囲し、火を放って残った人々を殺しました。 勝利のためには手段を選ばない信長の姿が、ここにもはっきりと表れています。
鉄砲と長篠の戦い
伝来して数十年しかたっていない火縄銃を積極的に取り入れ、大量に戦場に投入しました。 1575年、家康とともに長篠の戦いで武田の騎馬隊を破りますが、「鉄砲三段撃ち」という有名な話の細部は、今では歴史家の間で疑問視されています。
安土城、楽市楽座、宣教師
1576年から1579年にかけて琵琶湖のほとりに安土城を築き、「安土桃山時代」の名の由来となりました。 城下町で誰でも自由に商売できるようにした「楽市楽座」で古い座の独占を崩し、イエズス会の布教も認めました。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録は、信長を知る重要な史料です。 また、宣教師とともに来日したアフリカ出身の弥助が、1581年に信長に仕えたことも知られています。
武田の滅亡と頂点の年
1582年、信長と家康の軍は信濃と甲斐を攻め取り、武田勝頼は天目山の戦いに敗れて自害しました。 長篠から7年、宿敵の武田家はついに滅び、信長の天下はかつてないほど近づいていました。朝廷からは右大臣に任じられていますが、その年は記事の中でも1576年とするものと1577年からとするものがあり、一致していません。 まさにこの絶頂の年に、すべてが一夜にして崩れることになります。
本能寺の変
1582年、わずかな供回りで京都の本能寺に泊まっていた信長は、家臣の明智光秀に襲われ、炎の中で自害しました。 光秀はさらに二条にいた嫡男の信忠も攻め、信忠も自害しました。 光秀が謀反を起こした理由は今も議論が続いています。光秀は間もなく羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、秀吉が1590年に天下統一を完成させました。「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」という狂歌は、三英傑の関係を見事に言い表しています。
織田信長で覚える日本語表現
| 表現 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| 型破り | 常識にとらわれないこと | 彼の発想はいつも型破りだ。 |
| 敵は本能寺にあり | 本当の目的は別のところにある | 敵は本能寺にあり、狙いは別の試験だ。 |
| 天下を取る | 最高の地位を得る | 信長は天下を取る寸前だった。 |
| 見くびる | 実力を低く見る | 新人を見くびってはいけない。 |
| 先見の明 | 将来を見通す力 | 鉄砲を重んじた先見の明。 |
練習問題: 信長は「うつけ」と呼ばれながら周りを見返しました。誰かに見くびられた経験を、「見くびる」「型破り」を使って三文で書いてみましょう。