陶淵明とはどんな人?80数日で県令を辞め、田園に生きた詩人の生涯をたどる

陶淵明は365年に生まれ427年に没したとされる魏晋南北朝時代の詩人。出仕と辞任の年表、「桃花源記」、無弦の琴の逸話、評価の変遷を整理し、日本語の練習問題も付けました。

陶淵明は、365年に生まれ427年に没したとされる、中国・魏晋南北朝時代の詩人です。郷里の田園に隠遁し、自ら農作業に従事しつつ日常生活に即した詩文を多く残したため、「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれます。現存する作品は詩・散文を合わせて130余首とされます。以下では、出仕と辞任の年表、作品と逸話、評価の流れを順に見て、最後に日本語の練習問題を一つ用意しました。

生まれと名前

陶淵明は365年、江西省の柴桑(現在の九江市柴桑区)で生まれたとされます。曽祖父は東晋の大司馬・長沙郡公陶侃とされます。父は彼が八歳の時に亡くなりました。東晋の時代に生まれ、東晋の滅亡後も生きた人物とされます。

呼び名は一つではありません。諱は潜とされます。生涯の中ごろに、名を陶淵明から陶潜へ改めました。自伝的作品「五柳先生伝」から、五柳先生とも呼ばれました。本を読むときは、これらが同じ人物を指すと押さえておくと迷いません。

出仕と辞任の年表

393年に江州祭酒として出仕しましたが、短期間で辞めました。405年には彭沢県令となります。ところが80数日後の11月には辞任して帰郷しました。年表に置くと、役人としての時期が短く区切られていることが見えてきます。

辞任後は二度と出仕せず、隠遁の生活を続けました。「帰去来の辞」は、彭沢令を辞任した時に書かれたとされます。作品と出来事が結びついているので、読む前に略年表を作っておくと整理しやすくなります。

家庭の出来事と晩年

陶淵明は太元9年(384年)頃に結婚し、太元19年(394年)頃に死別した後、翟氏と再婚しました。393年の出仕と394年頃の死別は、年表では一年違いで並びます。結婚から死別までの約10年間を、年表の上で確かめてみてください。

隠遁後の義熙4年(408年)には、火事で屋敷を失いました。そして427年に没し、享年は63とされます。死後の誄(追悼文)は、友人で文人の顔延之によるものでした。田園での暮らしが、こうした出来事を含む年月だったことが年表からわかります。

「桃花源記」と無弦の琴

「桃花源記」は当時の中国文学では数少ないフィクションであり、桃源郷の語源となった作品として名高いとされます。現実の田園で暮らした詩人が、フィクションの作品でも知られている点は覚えておきたいところです。「帰去来の辞」と並べて読むと、作品の幅が見えてきます。

無弦の琴を携え、酔えばその琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだという逸話があります。陶淵明は無弦の琴を所有し愛でたとされ、その逸話は後世の文学で言及される共通の典拠となりました。琴の話は、詩とあわせて覚えておきたい人物像の一場面です。

評価の移り変わり

陶淵明は同時代において「古今隠逸詩人の宗」と評されました。後世には、田園詩の代表的存在とみなされています。「隠逸」「田園詩人」といった呼び名は、辞書で意味を確かめてから使うと誤解が減ります。

一方、修辞面では飾り気のない表現を心がけ、同時代の文学者には受け入れられなかったが、唐代以降次第に評価されはじめたとされます。手元の資料には、同時代の評価に関する二つの記述が並んでいます。どちらが正しいかを断定せず、両方を記録しておく読み方が安全です。

日本語の練習問題(この記事の自作)

ここからは、確認できた事実を素材に作った練習です。示す例文は陶淵明の発言ではなく、この記事が作った例です。課題は、出来事を「〜て、〜た」でつなぐ日本語の一文を書くことです。

例題として、405年の出来事を一文にまとめてみてください。例文は「陶淵明は彭沢県令を辞任して帰郷し、その後は二度と出仕しなかった。」です。解説すると、「辞任して帰郷し」で出来事の順序を、「二度と〜ない」で否定の強調を表しています。

次に、自分の略年表を三行で書いてみましょう。さらに「無弦の琴」の逸話を読んで、自分にとって大切な趣味や習慣を三つ書き出してみてください。書いたものを、先ほどの「〜て、〜た」でつなぐと、短い日記の下書きになります。

陶淵明で外国語を学ぶ

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