徳川家康はなぜ天下を取れた?人質の少年が260年の江戸幕府を開くまで

徳川家康はなぜ天下を取れた?人質の少年が260年の江戸幕府を開くまで

人質として少年時代を過ごした徳川家康は、信長と秀吉の時代を耐え抜き、1600年の関ヶ原で勝って江戸幕府を開きました。その「待つ力」をわかりやすく解説します。

徳川家康(1543–1616年)は1600年の関ヶ原の戦いに勝ち、1603年に征夷大将軍となりました。彼が開いた江戸幕府は、1868年の明治維新まで続きます。 織田信長、豊臣秀吉に続く「三英傑」の三人目であり、その成果を最も長く残した人物です。 最大の武器は忍耐でした。人質として過ごした少年時代を生き抜き、自分より華やかな二人に仕えて彼らより長く生き、機が熟したときにだけ決然と動いたのです。

人質としての少年時代

家康は1543年、三河国の岡崎城で生まれ、幼名を松平竹千代といいました。 松平家は強大な隣国にはさまれた小さな家で、竹千代は幼いころ、最初は織田家、次に今川家の人質に出されます。 他人の政治の駒として過ごした年月が、慎重さと観察力、そして待つことの大切さを教えたのでしょう。

若い両親と、引き離された母

家康が生まれたのは、天文11年12月26日、西暦では1543年1月31日にあたります。 父は松平広忠、母は水野忠政の娘・於大の方で、家康が生まれたとき父は17歳、母は15歳という若さでした。 ところが松平家が従う相手を変えたため、広忠は於大の方と離縁し、彼女を実家に帰してしまいます。 家康は物心つくころには母と離れて暮らすことになったのです。5歳のときには織田信秀の手で連れ去られ、織田方の寺で3年間を過ごしました。1551年、9歳になると今度は今川家の人質として駿府へ送られています。 幼い子どもが、大人たちの力関係しだいで次々と居場所を変えられていく。その経験の重さは想像にあまりあります。

元信から元康、家康、そして「徳川」へ

名前の移り変わりにも、家康の歩みがよく表れています。1556年に元服して松平次郎三郎元信と名乗り、翌年の結婚後には松平蔵人佐元康と改めました。 1563年2月には「家康」の名を使い始め、1566年に今川家からの独立を宣言、1567年には「徳川」の姓を名乗るようになります。 今川義元の「元」の字を捨てて自分の名を選び直したことは、人質の少年が一人の大名として立った宣言でもありました。

桶狭間のあとで独立

転機は1560年、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれたときでした。家康は今川家から離れ、1562年に信長と同盟を結びます。 この同盟は二十年続きました。勝ち続けたわけではなく、1573年の三方ヶ原の戦いでは武田信玄に大敗しています。武田家が滅ぶのは1582年のことです。 敗北から学ぶ姿勢も、家康らしさの一つとして語り継がれています。

妻と長男を失った1579年

家康の人生には、深い傷となった事件もあります。1579年、信長から妻の築山殿と長男の信康が武田勝頼と内通していると疑われ、家康は妻を処刑させ、信康に切腹を命じました。 ただし、この事件の本当の原因については、歴史家のあいだでいくつもの説が出されています。 同盟相手との関係を守るために家族を犠牲にしたという話は、「忍耐の人」という家康像の裏にある、戦国の世の厳しさを物語っています。

家康は、のちに天下を取った勝者として語られることが多い人物です。しかし少年時代の人質生活、母との別れ、三方ヶ原の大敗、そして妻子の死と、その前半生は失うことの連続でした。それでも生き延び、学び続けたことが、最後に長い平和を築く力になりました。成功した人の物語を読むときは、その陰にあった苦しい時期にも目を向けると、学べることがぐっと増えます。

秀吉に仕え、江戸へ

1582年に信長が倒れたあと、家康は最後まで秀吉と争う道ではなく、秀吉に仕える道を選びました。1590年、秀吉は家康を東の関東へ移し、家康は江戸という小さな城下町を本拠にします。 その町が今の東京です。左遷に見えたこの国替えは、実は広く豊かな領地をもたらし、ほかの大名を疲れさせた朝鮮出兵からも距離を置くことになりました。

1600年、関ヶ原

1598年に秀吉が亡くなると、幼い秀頼と有力大名たちの合議が残されました。最も力を持っていたのが家康です。豊臣家に忠実な大名たちとの対立は戦いとなり、1600年10月、関ヶ原で両軍が激突しました。戦いの最中に相手方から重要な寝返りが出たこともあって、家康の東軍が決定的な勝利を収めます。

将軍、そして長い平和

1603年に将軍となった家康は、わずか2年後の1605年に将軍職を息子の秀忠に譲りながら、亡くなるまで実権を握り続けました。 将軍職が徳川家のものだと世に示す、巧みな一手でした。1614–15年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、1616年に亡くなります。 家康の側には、1600年に日本に漂着したイギリス人航海士ウィリアム・アダムズ(三浦按針)もいて、武士の身分を与えられました。

大名への賞罰を細かく定めた仕組みは、二百年以上にわたる泰平を支え、後継者たちはのちに「鎖国」と呼ばれる対外政策をとりました。 「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という句は後世の作ですが、なぜ家康が最後に天下を手にしたのかをよく表しています。

徳川家康で覚える日本語表現

表現 意味 例文
鳴かぬなら鳴くまで待とう 好機が来るまで辛抱強く待つ 鳴かぬなら鳴くまで待とうの精神で勉強する。
石の上にも三年 辛抱すれば報われる 石の上にも三年、会話が上達した。
天下分け目 勝敗を決める大事な局面 今日の試験は天下分け目だ。
急がば回れ 遠回りに見えても確実な道を選べ 急がば回れで基礎からやり直した。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし 人生は長く重い道のり(家康の遺訓として伝わる言葉) 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、焦らずにいこう。

練習問題: 長い目で取り組んでいる勉強について、「石の上にも三年」「急がば回れ」を使って三文で書いてみましょう。

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