『赤毛のアン』という題名は誰が決めた?村岡花子訳から原作のアンの涙まで
『赤毛のアン』の邦題は1952年、編集者の提案と村岡花子の娘の後押しで決まりました。原作のあらすじ、作者モンゴメリ、日本で愛される背景を紹介します。
『赤毛のアン』という日本語の題名は、1952年に三笠書房から出た村岡花子訳のときに決まりました。村岡は最初『窓辺に倚る少女』という題を考えていましたが、編集者の小池喜孝が『赤毛のアン』を提案します。村岡はいったん断ったものの、当時20歳だった娘のみどりが強く推したため、この題名になりました。 原題は Anne of Green Gables、直訳すれば「グリーン・ゲイブルズのアン」です。もし最初の案のままだったら、この物語は日本でここまで親しまれていたでしょうか。
男の子のはずが、やって来たのは女の子
物語は、プリンス・エドワード島の架空の村アヴォンリーで始まります。農場グリーン・ゲイブルズに住むマシューとマリラのカスバート兄妹は、畑仕事を手伝う男の子を引き取るつもりでした。ところが手違いで、11歳の孤児の少女アン・シャーリーが送られてきます。 おしゃべりで空想好き、失敗ばかりのアンが、少しずつ二人の心と村に居場所を見つけていく――それがこの小説の骨組みです。
ノートに書きとめた小さな話
作者のルーシー・モード・モンゴメリは、男の子の孤児を頼んだのに女の子が届き、それでもその子を育てることにした兄妹の話を、若いころにノートに書きとめていました。それが物語の種になります。 アンの顔のモデルには、雑誌から切り抜いたイヴリン・ネスビットの写真を使いました。 当時は孤児の少女の物語がひとつの型になっていて、主人公には Ann という名前が多かったため、モンゴメリは「e のつく Anne」にこだわる少女として主人公を描き分けました。
祖父母に育てられた作者
モンゴメリは1874年11月30日、プリンス・エドワード島のニューロンドンで生まれました。1歳9か月ほどのころに母が結核で亡くなり、キャヴェンディッシュの母方の祖父母に育てられます。 教師の資格をとって島の学校で教え、ハリファックスでは新聞の校正の仕事もしました。 想像力が豊かで、まわりに必ずしも理解されない少女――アンの気持ちの一部は、作者自身の子ども時代とつながっているように見えます。
「にんじん」と石板、そして緑の髪
アンの失敗はどれも有名です。同級生のギルバート・ブライスに赤毛を「にんじん」とからかわれ、石板で彼の頭をたたいて割ってしまいます。 「腹心の友」ダイアナ・バリーにはラズベリー水のつもりでスグリ酒を出して酔わせてしまい、髪を黒く染めようとして緑にしてしまいます。 笑える場面ですが、どれも「受け入れられたい」という願いの裏返しです。アンがいちばん嫌っていたのは、まさに自分の赤い髪でした。
マシューの死とアンの選択
16歳でクイーン学院に進んだアンは、二年かかる教員免許を一年でとり、エイヴリー奨学金も勝ちとります。 けれども銀行の破綻で蓄えを失い、マシューが心臓発作で亡くなります。アンは奨学金をあきらめてマリラのそばに残ることを選び、ギルバートはアヴォンリーの教職をアンにゆずります。長い張り合いは、ここで友情に変わります。 明るいだけの物語ではなく、喪失や孤独も描かれている点を指摘する研究者もいます。
酷評から世界的なロングセラーへ
原作は1908年6月13日、ボストンのL・C・ペイジ社から出版され、最初の五か月で1万9000部以上売れました。 ところが当時の『ニューヨーク・タイムズ』の書評はかなり手きびしいものでした。同紙は1996年になって、あのときは「ひどくしくじったのかもしれない」と見直しています。 今では世界で5000万部以上が売れ、少なくとも36の言語に訳されています。
続編と、作者のその後
モンゴメリはこのあとアンの本を八冊書きました。『アンの青春』(1909年)、『アンの愛情』(1915年)、『アンの夢の家』(1917年)などが続き、『虹の谷のアン』と『アンの娘リラ』ではアンの子どもたちが中心になります。 作者自身は1911年に長老派の牧師ユーウェン・マクドナルドと結婚してオンタリオ州へ移りましたが、夫の心の病や第一次世界大戦も重なり、くり返しうつに苦しみました。1942年4月24日にトロントで亡くなり、ふるさとキャヴェンディッシュに葬られています。 アンの明るさの裏には、こうした作者の人生があったのです。
村岡訳から新訳まで
村岡花子訳は日本にアンを広めた訳として知られていますが、完訳ではなく省略や誤訳もあり、今の新潮文庫版では孫の村岡美枝が手を入れています。 その後、1973年の神山妙子訳、1990年から1991年にかけての掛川恭子訳、1993年の松本侑子訳など、さまざまな訳が出ました。 村岡花子の生涯は、NHKの連続テレビ小説『花子とアン』でもドラマになり、『赤毛のアン』を題材にした場面が織りこまれました。
アニメと芦別の「グリーン・ゲイブルズ」
1979年にはフジテレビの「世界名作劇場」で、日本アニメーション制作のアニメ『赤毛のアン』が放送されました。 この作品で、アンは日本でひとつのアイコンになったといわれます。小説は1952年から日本の学校の教材にも使われてきました。 北海道芦別市のカナディアンワールドには、グリーン・ゲイブルズのモデルになった家の原寸大の複製があり、島の本物の家が火事で一部焼けたときには、この複製と残っていた図面が復元の参考にされました。
『赤毛のアン』で覚える日本語表現
| 表現 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| 腹心の友 | 心から信じ合える友だち | ダイアナはアンの腹心の友だ。 |
| 想像の余地 | 思い描く楽しみが残っていること | この古い家には想像の余地がたくさんある。 |
| かんしゃくを起こす | 急に怒りを爆発させる | アンはギルバートにかんしゃくを起こした。 |
| 手違い | 手順のまちがい | 手違いで女の子が来てしまった。 |
| 明日は明日の風が吹く | 先のことはくよくよしない | 失敗しても、明日は明日の風が吹く。 |
練習問題: アンは場所に詩的な名前をつけるのが好きでした。毎日通る場所を三つ選んで新しい名前をつけ、「想像の余地」か「腹心の友」を使って、その名前の理由を一文ずつ書いてみましょう。