ハンニバルと象のアルプス越え:カルタゴの名将はなぜローマを倒しかけ、敗れたのか
ハンニバル(前247–前182年ごろ)は、象を連れてアルプスを越え、カンナエでローマ軍を包囲殲滅しながら、最後は戦争に敗れたカルタゴの将軍です。戦い方と最期を紹介します。
ハンニバル(紀元前247年–前183年から前181年のあいだ)は、カルタゴの将軍・政治家です。第二次ポエニ戦争で、戦象を含む軍をイベリア半島からアルプス越えでイタリアへ進め、名高いカンナエの戦いをはじめとする一連の戦いでローマを破りましたが、最後までローマを落とせず、カルタゴは戦争に敗れました。 アレクサンドロス大王やユリウス・カエサルと並ぶ、古代屈指の戦術家とされています。
ローマに敵対を誓った少年
ハンニバルはカルタゴの名将ハミルカル・バルカの息子で、おそらく今のチュニジアにあったカルタゴで生まれました。 第一次ポエニ戦争でローマに敗れたあと、ハミルカルはイベリア半島の大部分を征服して一族と都市の力を立て直そうとします。ギリシャの歴史家ポリュビオスによれば、ハンニバルはのちに、少年のころ父についていきたいとせがむと、ハミルカルに「生きているかぎり決してローマの友にならない」と誓わされたと語ったといいます。
26歳の総司令官
紀元前221年、イベリアでカルタゴ軍を率いていたハスドルバルが暗殺されると、軍はおよそ26歳のハンニバルを総司令官に推し、カルタゴ政府もこれを認めました。 歴史家リウィウスによれば、ハンニバルはイベリアの町カストゥロの女性と結婚しました。詩人シリウス・イタリクスは彼女の名をイミルケとしていますが、息子がいたかどうかははっきりしません。
アルプス越え
紀元前218年、ハンニバルがローマの同盟都市サグントゥムを攻撃したことで、第二次ポエニ戦争が始まりました。 彼はイベリアや海で戦うのではなく、北アフリカの戦象を含む軍を率いて、ピレネー山脈、さらにアルプス山脈を越えて北イタリアへ攻めこむという、だれも予想しない道を選びます。 雪と狭い峠、山岳部族の攻撃で多くの兵と動物を失いましたが、戦争をローマの本土へ直接持ちこんだのです。
連戦連勝とカンナエ
イタリアに入って最初の数年、カルタゴ人とケルト人の軍を率いたハンニバルは、ティキヌス、トレビア、トラシメヌス湖、カンナエで次々に勝ち、ローマに大打撃を与えました。 紀元前216年のカンナエの戦いは、今も士官学校で研究されています。弱い部隊を中央に、精鋭を両翼に置き、数で勝るローマ軍が中央へ押しこむと、カルタゴの戦列はわざと後ろへたわみ、両翼と騎兵が横と後ろから閉じて、ローマ軍を完全に包囲しました。 ローマ史上最悪級の敗北で、この「両翼包囲」はのちの将軍たちの教科書になりました。
数字で見る遠征
伝えられる数字からは、アルプス越えの厳しさが見えてきます。ハンニバルは歩兵4万、騎兵1万2,000を連れてガリアに入ったとされ、征服した地域の守りに2万人を残し、ピレネーではイベリア兵1万1,000人を帰しました。 ローヌ川に着いたときの兵力は歩兵3万8,000、騎兵8,000、象38頭でしたが、ポリュビオスによれば、イタリアに着いたときには歩兵2万、騎兵6,000、象はわずか数頭になっていました。 紀元前217年、アルノ川の湿地を進む行軍のさなかに、ハンニバルは結膜炎で右目の視力を失っています。 カンナエでのローマ側の損害は、戦死者と捕虜を合わせて5万から7万人と見積もられ、執政官ルキウス・アエミリウス・パウルスや80人の元老院議員も命を落としました。 同じ紀元前216年、イタリア第二の都市カプアがローマを離れてハンニバルの拠点になりました。 しかし紀元前207年、弟のハスドルバルがメタウルス川の戦いで敗れて戦死し、その首はハンニバルの陣営に投げこまれたといいます。
なぜ勝ちきれなかったのか
カンナエのあとも、ハンニバルはローマそのものへは進軍しませんでした。約15年にわたって南イタリアの大部分を占領し、ローマの同盟都市をいくつも味方につけましたが、ファビウス・マクシムス率いるローマは大きな決戦を避け、持久戦で彼を消耗させました(今も「ファビアン戦略」と呼ばれます)。 イベリアでのカルタゴの敗北で援軍も途絶えます。やがてローマはスキピオの軍をアフリカに送り、呼びもどされたハンニバルは紀元前202年のザマの戦いで敗れ、戦争は終わりました。
亡命と最期
戦後、ハンニバルはカルタゴの最高職に選ばれ、ローマへの重い賠償金を払うための改革を進めましたが、カルタゴの貴族にもローマにも嫌われ、亡命します。 セレウコス朝の王アンティオコス3世の軍事顧問としてローマと戦い、王が敗れるとさらに逃れて、最後はビテュニア王国にたどり着きました。ローマに引き渡されそうになると、捕まるより毒をあおることを選びました。
蛇の壺と最後の手紙
カルタゴの最高職スフェスに選ばれたハンニバルは、有力者の集まり「百四人会」の議員を直接選挙で選ぶようにし、任期を1年で連続して務められないものにしました。 亡命後の紀元前190年には、ペルガモン王エウメネス2世の艦隊を相手にした海戦で、毒蛇を詰めた土の壺を敵の船に投げこんで勝ったと記されています。 同じ年のマグネシアの戦いでアンティオコス3世が敗れると、再び逃れることになりました。 亡くなった年は資料によって紀元前183年、182年、181年と分かれ、墓はマルマラ海に面したリビッサにあったと伝えられます。 最後の手紙には「ローマ人を長年の不安から解き放ってやろう」という意味の言葉があったとされています。 また伝えられる逸話では、スキピオに史上最高の将軍はだれかと聞かれ、「アレクサンドロスかピュロス、その次が自分だ」と答えたといいます。
ハンニバルで覚える英語表現
| 表現 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| a war of attrition | 消耗戦 | It became a war of attrition. |
| burn your bridges | 退路を断つ | She burned her bridges. |
| win the battle but lose the war | 局地戦に勝って大局で負ける | We won the battle but lost the war. |
| fall into a trap | わなにはまる | The Romans fell into a trap. |
| against all odds | 不利をはねのけて | He crossed the Alps against all odds. |
練習問題: 長く続いた取り組みについて、「a war of attrition」「win the battle but lose the war」を使って英語で三文書いてみましょう。