サン・マルティンはどの国を独立させた?アンデスを越えた南米の解放者
アルゼンチン、チリ、ペルーの解放者とたたえられるサン・マルティン。アンデス山脈越え、ボリバルとのグアヤキル会談、そして権力を手放した理由を解説します。
ホセ・デ・サン・マルティンは、「アルゼンチン、チリ、ペルーの解放者」と呼ばれるアルゼンチン出身の軍人です。 南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍し、アンデス山脈を越えてチリを解放し、その後ペルーの独立を宣言しました。 しかし1822年、北から進んできたシモン・ボリバルとグアヤキルで会談したあと、ペルー解放の仕上げをボリバルに託し、自らは表舞台から退きます。 成功の頂点で権力を手放したことが、今も彼が尊敬される理由の一つです。
スペイン軍人としての出発
サン・マルティンは1778年2月25日、アルゼンチン北東部コリエンテス州の小さな村ヤペユーで、スペイン軍の軍人だった父のもとに生まれました。 洗礼の記録が残っていないため、生まれた年には異説もあります。
7歳で家族とともにスペインに渡り、職業軍人の道を進んで22年間スペイン軍で働きました。陸軍中佐まで昇進しましたが、母国での独立運動を耳にして、それまで築いた地位を捨てて帰国を決意します。 スペイン王に仕えた将校が、そのスペインと戦う側に回ったのです。
帰国と「大陸計画」
1812年、ラ・プラタ連合州として独立していた母国に帰国し、ブエノスアイレスの革命政府に参加しました。 騎兵が不足していた政府の求めで騎馬擲弾兵連隊をつくり、同じ年に地元の名家の娘マリア・デ・ロス・レメディオス・デ・エスカラーダと結婚しています。 1813年2月3日には、サン・ロレンソの戦いでスペイン軍を破りました。
彼は、アルゼンチンだけでなく南アメリカのすべての国が独立すべきであり、そのためにはスペイン支配の拠点であるペルー、とりわけリマを解放しなければならないと考えました。 北からの攻撃は険しい地形に阻まれて何度も失敗していたため、まずアンデスを越えてチリを解放し、そこからペルーへ向かうという壮大な作戦を練り始めたのです。
アンデス山脈越え
サン・マルティンはメンドーサを拠点に新しい軍、アンデス軍を鍛え上げました。 1817年初め、亡命していたチリの独立指導者ベルナルド・オイヒンスらとともにメンドーサを出発し、スペイン軍の油断をついてアンデス山脈を越えました。
軍は六つの縦隊に分かれて別々の峠を進み、山越えには一か月近くかかりました。兵士たちは高山病を防ぐためににんにくと玉ねぎを食べ、生き残ったラバ4300頭と馬511頭は、出発時の半分にも届かなかったといいます。
チリの解放
山を越えた軍はチャカブコの戦いに勝ち、2月13日にサンティアゴに入城しました。チリの議会はサン・マルティンを執政官に選びましたが、彼はこれを断り、ともに戦ったオイヒンスをチリの元首に推しました。 その後マイプーの戦いで再びスペイン軍を破り、チリの独立が確定します。
ペルーの独立宣言
次の目標はペルーでした。艦隊の組織に2年近くかかり、元イギリス海軍軍人トマス・コクランの力を借りて、ようやくリマへ向けて出発したのは1820年8月のことです。 ペルーのスペイン軍は約2万3000人で、サン・マルティンの兵力の数倍もありました。そのため彼は大きな戦闘を避け、敵を分断し、各地の反乱を促す作戦をとりました。
1821年7月28日、サン・マルティンはペルーの独立を宣言し、ペルーの「護国官」に就きました。 しかし独立は海岸部にとどまり、内陸に勢力を張るスペイン軍に対抗する兵力はありませんでした。奴隷解放などの政策も、地元の有力者の支持を得られませんでした。
グアヤキル会談の謎
1822年7月26日、エクアドルの港町グアヤキルで、サン・マルティンとボリバルの会談が開かれました。記録が残っていないため内容はわかっていませんが、グアヤキルの帰属やペルー独立の進め方が話し合われたといわれています。 会談のあと、ボリバルがペルー解放の仕事を引き継ぎ、サン・マルティンは突然ペルーを去り、軍の指揮権を返上して政治と軍から身を引きました。
晩年と評価
妻を亡くしたあと、サン・マルティンは1824年に娘とともにヨーロッパへ渡り、最後はフランスのブローニュ=シュル=メールで亡くなりました。 現在、彼の柩はブエノスアイレスの五月広場に面した大聖堂に安置されています。 南米南部の独立の英雄として今も広く尊敬され、アルゼンチンでは彼の命日が国民の祝日になっています。
旗と改革
アンデス軍はアルゼンチン国旗ではなく、空色と白の独自の旗を掲げました。この軍がアルゼンチンだけの軍隊ではなかったからです。 ペルーの護国官としては、先住民に課されていたミタやヤナコナスゴといった強制労働の制度を廃止して先住民に市民権を与え、奴隷の子どもを自由人とする「子宮の自由」を宣言しました。
フランスで亡くなった彼の遺骸は、1880年5月29日にようやく祖国へ戻り、ブエノスアイレスの大聖堂の霊廟に納められました。 勲章「解放者サン・マルティン将軍勲章」は、今もアルゼンチン政府が授ける最高の勲章です。
サン・マルティンで学ぶ日本語表現
| 表現 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| 身を引く | 地位や仕事から退く | 彼は成功の絶頂で身を引いた。 |
| 地位を捨てる | 得た立場を手放す | 夢のために地位を捨てた。 |
| 油断をつく | 相手の気のゆるみを利用する | 相手の油断をついて逆転した。 |
| 後を託す | あとのことを人に任せる | 若い世代に後を託した。 |
| 険しい道のり | 困難の多い過程 | 独立までは険しい道のりだった。 |
練習: 尊敬する人物について、「身を引く」と「後を託す」を使って三文書いてみましょう。