マタ・ハリは本当にスパイだったのか?2017年の公開資料が示した「伝説の女スパイ」の実像
フランスとドイツの両方の諜報要員だったのは事実。しかし2017年の公開資料でも、どちらにも役立つ情報を渡した証拠は見つからず、敗戦続きのフランスの身代わりにされたと考えられています。
マタ・ハリは、形の上ではたしかにスパイでした。2017年に公開された情報によって、彼女がフランス軍とドイツ軍の両方の諜報要員だったことがはっきりしています。けれども同じ資料からは、彼女の諜報活動がとても質の低いもので、どちらの陣営にも意味のある情報をもたらした証拠は一つも見つかりませんでした。 「女スパイの代名詞」となった彼女の実像は、戦争に負け続けていたフランスが必要とした、ちょうどよい身代わりだったと考える歴史家が少なくありません。
帽子屋の娘、マルハレータ
マタ・ハリの本名はマルハレータ・ヘールトロイダ・ゼレ。1876年8月7日、オランダ北部フリースラント州のレーワルデンで、四人きょうだいの長女として生まれました。 東洋風の芸名とは裏腹に、マレー系などアジアの血を引く祖先はいないとされています。父は人気の帽子店を営み、石油への投資にも成功していたため、一家はぜいたくな暮らしをしていました。
ところが父が石油株の投資に失敗し、借金が雪だるま式にふくらんで、1889年についに破産します。両親は離婚し、子どもたちは別々の親戚に引き取られ、母は1891年に亡くなりました。 幼稚園の先生をめざして勉強した学校も、学長に露骨に言い寄られたことをきっかけに去ることになります。
新聞広告で決めた結婚
19歳のとき、彼女は新聞の結婚相手募集の広告に応募し、21歳年上のオランダ軍将校ルドルフ・マクラウド大尉と結婚しました。出会いからわずか100日のことでした。 夫の任地であるオランダ領東インドに渡り、一男一女をもうけますが、夫は酒に溺れ、日常的に暴力をふるい、愛人を公然と囲っていました。 息子を病気で亡くしたことで夫婦の仲は決裂し、1902年に別居します。
「ジャワの王女」の誕生
離婚してパリに渡ったものの、なかなかよい仕事に就けず、暮らしは苦しくなっていきました。ある日、友人のパーティーの余興で見よう見まねのジャワ舞踊を披露したところ大受けし、ダンサーにならないかという話が舞い込みます。
1905年、彼女は「ジャワ島からやって来た王女」「インド寺院の踊り巫女」という触れ込みでデビューしました。ショーは大成功を収め、やがてミラノ・スカラ座で公演するほどの人気ダンサーになります。芸名の「マタ・ハリ」は、マレー語・インドネシア語で「太陽」、文字どおりには「日の眼」を意味する言葉です。 当時のヨーロッパではオランダ領東インドを知る人が少なかったため、観客はその作り話を信じたのでした。
しかし1910年ごろには数多くの模倣者が現れ、彼女は踊れないダンサーだと批判されるようにもなります。最後の舞台は1915年3月13日でした。 その頃には、各国の高級将校や政治家を相手にする高級娼婦として生計を立てていました。
中立国の国籍と、ロシア人の恋人
第一次世界大戦のあいだ、オランダは中立を守りました。そのためオランダ国籍の彼女は国境を比較的自由に越えることができ、スペインやイギリスを経由してフランスとオランダを行き来しました。その動きは当然、各国の情報機関の目を引きます。
転機は恋でした。彼女はフランス軍とともに戦う23歳のロシア人大尉ヴァジム・マスロフと激しい恋に落ち、彼を「生涯の恋人」と呼びました。マスロフが負傷して左目を失うと、前線近くの病院に見舞いに行く許可を求めます。そこで現れたフランス軍の情報部は、フランスのためにスパイをするなら会わせてやる、と持ちかけたのです。 報酬は100万フランで、標的はかつて彼女の踊りを見たドイツの皇太子でした。けれども皇太子は名ばかりの将軍で、重要な軍事機密を握る立場ではありませんでした。
暗号名「H-21」
1916年末、彼女はマドリードでドイツの駐在武官と会い、お金と引き換えにフランスの情報を渡すと申し出たようです。 1917年2月の逮捕は、スペイン駐在のドイツ武官が彼女を暗号名「H-21」のドイツのスパイとして送った通信を、フランスが解読したことから始まりました。
ただし、この通信にはフランスがすでに解読していると知られていた暗号が使われていました。つまり、わざと読ませて彼女を逮捕させるために送られた可能性があるのです。ドイツ側の情報部長は、彼女がパリの政治家や将軍の色恋の噂話しか持ってこないことに不満を抱いていたといいます。
なぜ「身代わり」にされたのか
当時、戦況はフランスにとって不利で、前年のソンムの戦いでも膨大な損害を出し、政府への国民の不満は頂点に達していました。すべての軍事的失敗をマタ・ハリのせいにするのは政府にとって好都合で、輸送船がUボートに沈められたことまで彼女の仕業にされました。 新聞も作戦の失敗を彼女に押しつけるように報じ、かばう人はいませんでした。
裁判でも決定的な証拠は出ませんでした。弁護人は検察側の証人に反対尋問することさえ許されず、彼女を勧誘した情報将校ラドゥーは証拠の改ざんにまで手を染めたとされます。 頼みの恋人マスロフは証言を断り、有罪になろうがかまわないと言い放ちました。それを知った彼女は気を失ったといいます。最後まで、ドイツのスパイだったことは一度も認めませんでした。
夜明けの銃殺と、その後
1917年7月24日に死刑判決が下り、10月15日の夜明け前、彼女は12人の兵士による銃殺隊の前に立ちました。41歳でした。 処刑前の彼女は落ち着きはらっていて、目隠しも、木に縛りつけられることも拒んだと伝えられています。 一方で「銃殺隊が彼女の美しさに惑わされないよう目隠しをした」「全裸で撃たれた」といった有名な逸話は、いずれも信ぴょう性が疑われています。
遺体を引き取る家族はなく、防腐処理された頭部はパリの解剖学博物館に保管されましたが、2000年に行方不明になっていることがわかりました。処刑から百年後の2017年、フランス軍は1275ページにのぼる裁判記録を公開しています。 伝説の妖婦ではなく、大きな力に利用され、捨てられた一人の女性。それが資料から見えてくるマタ・ハリの姿です。
マタ・ハリで覚える日本語表現
| 表現 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| 濡れ衣を着せられる | 無実なのに罪を負わされる | 彼女は濡れ衣を着せられたのかもしれない。 |
| 二股をかける | 二つの相手と同時に関係を持つ | 両国に二股をかけたと疑われた。 |
| 尻尾をつかむ | 隠していた悪事の証拠を得る | 当局は決定的な尻尾をつかめなかった。 |
| 責任を押しつける | 自分の責任を他人に負わせる | 政府は失敗の責任を彼女に押しつけた。 |
| 泰然自若 | 落ち着いて動じない様子 | 彼女は最期まで泰然自若としていた。 |
練習問題: 「濡れ衣を着せられる」「責任を押しつける」を使って、マタ・ハリの裁判について三文で書いてみましょう。