ヴィクトリア女王はなぜ40年も喪服を着続けた?「ヨーロッパの祖母」の素顔

夫アルバートを亡くしたヴィクトリア女王は、生涯黒い喪服で過ごしました。63年の治世、9人の子ども、「ヨーロッパの祖母」と呼ばれた理由を解説します。

ヴィクトリア女王が黒い服を着続けたのは、1861年12月14日に最愛の夫アルバート公を亡くし、その死を生涯悼み続けたからです。 女王はその後40年近く喪服で過ごし、長いあいだ公の場を避けたため「ウィンザーの未亡人」と呼ばれました。 けれども、黒いドレスの奥には、18歳で即位し、自分から結婚を申し込み、60年以上も国を治めた、意外なほど情熱的な女性の姿があります。

ドリーナと呼ばれた王女

本名はアレクサンドリナ・ヴィクトリアで、1819年5月24日にロンドンのケンジントン宮殿で生まれました。子どものころは、アレクサンドリナを縮めて「ドリーナ」と呼ばれていました。 父のケント公は翌年に亡くなり、母のもとで「ケンジントン・システム」と呼ばれる厳しい規則に縛られて育ちます。 1837年6月20日、伯父ウィリアム4世の死によって18歳で即位し、1838年6月28日にウェストミンスター寺院で戴冠しました。

女王からのプロポーズ

君主である女王は、自分から求婚しました。1839年10月15日、いとこのザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートに結婚を申し込み、1840年2月10日に結婚します。 二人のあいだには4男5女、合わせて9人の子どもが生まれ、長男アルバート・エドワードはのちのエドワード7世です。

女王は暗殺未遂にも何度も遭いました。1840年から1872年までに6件の襲撃があり、1850年には実際にけがをしています。 そのたびに、国民の同情と人気が高まりました。最初の襲撃は1840年のエドワード・オックスフォードによるもので、その後も1842年にジョン・フランシスとジョン・ウィリアム・ビーン、1849年にウィリアム・ハミルトン、1850年にロバート・ペイト、1872年にアーサー・オコナーと続きました。ペイトの襲撃では、女王は実際にけがを負っています。 若いころの女王を政治の面で支えたのは首相メルバーン卿で、経験の浅い女王にとって頼れる先生のような存在でした。

夫の死と長い喪

1861年は女王にとってつらい年でした。3月に母を亡くし、12月には夫アルバートが42歳で亡くなります。 死因は腸チフスでした。 女王は十年以上も喪に服して公務からほとんど身を引き、1870年代になって首相ディズレーリに励まされ、ようやく表舞台に戻りました。 人前にほとんど出ない君主の姿は、王室のあり方に疑問を持たせるものでもありました。黒い喪服は単なる好みではなく、悲しみを世に示す意思表示であり、一時は王室そのものの人気をおびやかすほどだったのです。

孤独な女王は、スコットランド人の召使いジョン・ブラウンを深く頼り、宮廷ではうわさが立ちました。1887年からはインド人の青年アブドゥル・カリームを「ムンシー(先生)」としてそばに置き、ウルドゥー語を習っています。家族や側近は反発しましたが、女王は人種的な偏見だとして退け、彼は女王が亡くなるまで仕えました。

インド女帝と二つの記念祭

1877年1月1日、女王はインド女帝の称号を名乗りました。 1887年の即位50周年記念には50人の国王や王族を招いた晩餐会が開かれ、女王の人気は戻っていました。1896年9月23日には祖父ジョージ3世を抜いてイギリス史上もっとも長く在位した君主となり、翌1897年の60周年記念は帝国をあげての祝祭になりました。ロンドンでは約10キロにおよぶ行列が街をめぐり、セント・ポール大聖堂の前では屋外の礼拝が行われ、大勢の人が集まりました。

ヴィクトリア朝という時代

女王の名前は、1837年から1901年までの「ヴィクトリア朝」という時代の名前になりました。この時代、イギリス帝国は急速に広がり、イギリスは「世界の工場」と呼ばれる工業と貿易の中心になります。 鉄道が旅を変え、電信や電話が生まれ、1901年には国民の4人に3人以上が都市に住むようになりました。100年前は5人に1人ほどでした。 政治の面でも、1832年、1867年、1884年の選挙法改正で投票できる人が少しずつ増えました。それでも女性と多くの男性には、20世紀の初めまで選挙権がありませんでした。クリミア戦争(1853–1856年)は、この時代にイギリスがほかの大国と戦った唯一の戦争です。

「ヨーロッパの祖母」と血友病

子どもたちがヨーロッパ各国の王家と結婚したため、女王は「ヨーロッパの祖母」と呼ばれます。孫娘のアレクサンドラはロシア皇后になりました。 ただし、この血のつながりは血友病も運びました。息子レオポルドが血友病で、娘二人が保因者でした。のちにロシアの皇太子アレクセイやスペインの王子二人にも現れています。

「われわれは面白くない」という有名な言葉も、本当に女王が言った証拠はなく、本人も否定しています。側近たちは、女王がよく声をあげて笑ったと書き残しています。

白い衣装での別れ

1901年1月22日、女王はワイト島のオズボーン・ハウスで81歳で亡くなりました。 40年も黒を着続けた女王は、葬儀を白でと望み、白いドレスと結婚式のベールを身につけて、ウィンザーのフロッグモアでアルバートの隣に葬られました。 63年7か月の治世は、玄孫エリザベス2世に抜かれるまでイギリス史上最長でした。

ヴィクトリア女王で覚える日本語表現

表現 意味 例文
喪に服す 亡くなった人を悼んで慎む 女王は長く喪に服した。
表舞台に戻る 再び人前で活動する 女王はやがて表舞台に戻った。
一時代を築く 長く大きな影響を残す 彼女は一時代を築いた。
血は争えない 親子は似るものだ 孫を見ると血は争えない。
時代の終わり 大きな時期が終わること 女王の死は一つの時代の終わりだった。

練習問題: 「表舞台に戻る」「一時代を築く」を使って、あなたが知っている有名人について三文で書いてみましょう。

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