ピンダロスとは何をした人?競技祭の祝勝歌を残した古代ギリシアの詩人を年表でたどる

ピンダロスは四大競技祭の祝勝歌で知られる古代ギリシアの詩人です。生い立ち、各地の宮廷での作詩、ペルシア戦争での中立、現存する作品の範囲を、確かな点と伝承に分けて整理します。

ピンダロスは古代ギリシアの詩人で、四大競技祭の祝勝歌が多いことで知られます。 2004年のアテネオリンピックの表彰メダルの表には、彼の祝勝歌が公式に採用され彫られました。 この記事では、その生涯を年表と作品の特徴からたどります。

生まれと最初の勝利歌

ピンダロスはテーバイ近郊のキュノスケパライで生まれ、名門アイゲイダイ氏に属したとされます。 生年は紀元前518年頃と整理されています。

若くして作詩と音楽を学びました。 詩人としての出発は、20歳の頃にテッサリアの豪族の依頼で最初の勝利歌を作ったことです。 年表では紀元前498年頃に当たります。

各地の宮廷で詩を作る

同時代には、シモニデスやバキュリデスというライバルがいました。 詩人が互いに競い合う環境のなかで、彼は仕事を広げていきました。

シチリアのヒエロンの宮廷などを訪れ、各地の貴族のために名声を頼りに作詩しました。 紀元前470年には、シチリアの僭主ヒエロンを称える第一ピュティア歌を作っています。

最大傑作とされる「ピュティア勝利歌」第4歌と第5歌は、キュレネの王のために作られました。 年表では紀元前462年に、王アルケシラオスのために作った作品です。

ペルシア戦争のなかで

紀元前490年にペルシアの第一次侵攻が起こりました。 彼は同じ年のピュティア競技祭に出席し、テュラシュボロスと出会っています。

紀元前480年〜479年の第二次侵攻では、テーバイはクセルクセスの将マルドニオスに占領されました。 そうしたなかでも、ペルシア戦争の際には愛国の歌を作らず、中立を守ったとされます。

この姿勢は、時勢に超然として「いっさいを人間のために造りたもう神」への信仰を守ったものと説明されています。 また、テーバイ当局はアテナイを称える詩を理由に5,000ドラクマの罰金を科したと伝えられます。

最期と、残った作品

最後はアルゴスの地で、愛する少年テオクセノスの手に抱かれ、80歳の生涯を閉じました。 没年は紀元前442年頃〜438年頃とされています。

古伝によれば詩は17巻ありましたが、現存するのは最初の4巻の競技勝利歌のみです。 失われた部分については、ここから先は確かなことが言えません。

それでも、九人の抒情詩人の中では作品が最もよく残っています。 現存部分が競技勝利歌に偏っていることを頭に置いておくと、人物像を読むときの手がかりになります。

評価と読みにくさ

クインティリアヌスは、九人の抒情詩人の中でピンダロスが群を抜いて偉大だと評しました。 彼は、詩の本質と詩人の役割について考えた最初のギリシア詩人ともされます。

一方、作品の特徴は複雑な韻律とドリス方言による荘重な表現です。 読者が詩想についていくのは容易ではありません。

評価の高さと読みにくさが同居している点が、この詩人の面白さです。まず年表と事実から入り、詩そのものは少しずつ読み進めるのがよさそうです。

伝記を読むときの注意

伝記に関する古代の史料の多くは後世にまとめられ、伝説的な要素が多いと見なされています。 罰金の話のように「伝えられる」と書かれる事柄は、確定した事実とは分けて読む必要があります。

この記事でも、生年や没年に「頃」が付くものは幅のある数字として扱いました。確かな点と伝承を分けてメモする習慣は、他の古代の人物を調べるときにも役立ちます。

自分で書いてみる練習

読んだ内容を、三つの事実と一つの感想に分けて日本語の一段落にまとめる練習を、ぜひ試してみてください。感想は事実と混ぜず、最後に一文だけ添えます。

次の例は、この記事の事実を使って私が作った練習用の答案です。ピンダロスの発言ではありません。「ピンダロスは四大競技祭の祝勝歌で知られる詩人です。 現存するのは最初の4巻の競技勝利歌のみです。 ペルシア戦争の際には愛国の歌を作らず、中立を守りました。 残った作品が一部だと知り、読むときは慎重でありたいと思いました。」

この答案では、最初の三文が事実で、最後の一文だけが感想です。出典のない推測を事実の文に混ぜないことが、ねらいです。次は、気になる別の人物を一人選び、同じ形式で書いてみてください。

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