「春はあけぼの」の先へ:海外から読む『枕草子』と清少納言――三巻本、翻訳、名探偵になった作者
『枕草子』は清少納言が定子の後宮で書いた随筆で、類聚・日記・随想の章段からなります。成立の謎、本文の異同、英訳や海外での受け止め方を紹介します。
『枕草子』は、清少納言が中宮定子に仕えた990年代から1000年代初めにかけて書きとめた観察と随想の書で、英語圏では『The Pillow Book』の名で読まれ、千年前の宮廷社会を知る最良の資料の一つ、日本文学史の重要な道標と評価されています。 学校で冒頭を暗唱した人は多いはずですが、海外でどう読まれ、どう訳されてきたかまで知っている人は少ないかもしれません。ここでは基本をおさらいしつつ、少し外側から『枕草子』を眺めてみます。
清少納言という呼び名
本名はわかっていません。当時の女房は父や夫の官職にちなむ呼び名で呼ばれ、「清」は父の姓・清原の「清」の音読み、「少納言」は官職名ですが、父も知られている夫たちもこの職に就いておらず、なぜこの名なのかは不明です。 本名を「清原諾子(なぎこ)」とする説もありますが、可能性の一つにとどまります。
966年ごろの生まれで、父は学者で歌人として知られた清原元輔、曾祖父の清原深養父も歌人でした。 993年ごろに一条天皇の中宮定子に出仕し、記憶力のよさと、場面にぴったりの古歌をすっと引ける才で知られました。 晩年については、尼となって貧しく暮らしたという伝承と、摂津守藤原棟世と結婚して娘をもうけたという伝承があります。
「流出」した草子
この書はもともと私的なものだったとされます。客のために出した敷物の上に置き忘れたところ、客が頼みも聞かずに持ち去ってしまい、宮中に広まったという話が伝わっています。 年表の上では、996年ごろ伊勢守源経房が初期の草稿を見つけて広めたとされ、その前の994年ごろ、定子の兄伊周が中宮に献上した紙がこの草子に使われたとも推定されています(いずれも疑問符つき)。 完成年は1002年とする記述がある一方、1001年から1010年のあいだ、宮仕えを退いてからとする見方もあり、確定していません。
三巻本と能因本――章段番号がずれる理由
教科書と文庫本で段の番号が違って戸惑った経験はないでしょうか。『枕草子』は長く写本で伝わり、写し手によって章段の順序が変えられたり、注や文章が加えられたり削られたりしたと考えられています。主な系統は四つあり、そのうち最も完全で正確とされるのが三巻本と能因本です。三巻本は297段に、後の加筆かもしれない「一本」29段が付きます。 段の番号は後世の編者が振ったもので、類聚的な章段を同じ種類ごとにまとめる作業も、清少納言以外の人の手によるとされます。
「ボルヘス的なリスト」と呼ばれて
英語圏で特に面白がられているのが「ものづくし」です。「虫は」「木の花は」「にくきもの」のような列挙は、時代錯誤を承知で「ボルヘス的なリスト」と評されることもあります。 翻訳者メレディス・マッキニーは、この作品をジャンルを越えた、互いにほとんど関係のない短い断章の雑録だと述べています。 さらに、「春はあけぼの」が実際に何を言っているのか(何がよいと言っているのか)についても、通説への異論があると紹介されています。 主語も述語も省いたあの一文を外国語に移そうとすると、日本語話者が当然のように補っている意味が、実は解釈の一つにすぎないことに気づかされます。
「をかし」の文学、書かれなかった悲しみ
『源氏物語』の「もののあはれ」に対し、『枕草子』は「をかし」という知的な言葉で世界の美しさを示す、という対比は海外の紹介でも定番です。 ただ、その明るさの裏側も見ておきたいところです。定子の父道隆の死後、藤原道長が娘の彰子を入内させ、やがて后としたため、定子は二人の后の一人となりました。 それでも清少納言は宮廷の出来事を軽やかに描き、定子の出産による死のような厳しい現実はほとんど書いていません。当時の流儀では、情熱的に書くことはかえって野暮だったからだとされます。 「書かなかったこと」を意識して読み返すと、華やかな章段がずっと切なく見えてきます。
紫式部が日記の中で清少納言を辛辣に評しつつも、その文才は認めていたことはよく知られています。 敵対する后に仕えた二人の女房が、同じかな文字で日本の散文の礎を築いたことになります。
英訳と、名探偵になった清少納言
英訳は1889年にパーセルとアストンが六段を訳したのが最初で、1928年にアーサー・ウェイリーの抄訳、1967年にアイヴァン・モリスの初の全訳、2006年にマッキニーの全訳が出ました。 研究者の緑川眞知子氏は、マッキニー訳をモリス訳よりはるかに正確だと評しています。 1996年にはピーター・グリーナウェイ監督の映画『The Pillow Book』が公開され、イギリスのBBCラジオ4では、清少納言を主要人物にした推理ドラマのシリーズまで放送されました。 鋭い観察眼と記憶力を、探偵の資質として読み替えたわけです。
日本では、『枕草子』は「随筆」というジャンルに影響を与え、のちの『方丈記』や『徒然草』につながっていきます。 江戸時代には『犬枕』というパロディまで生まれました。
清少納言で学ぶ英語表現
| 英語 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| pillow book | 枕草子、身辺の覚え書き | She kept a pillow book. |
| lady-in-waiting | 女房、侍女 | She was a lady-in-waiting to the empress. |
| hateful things | にくきもの | Here is my list of hateful things. |
| witty | 機知に富んだ | Her style is witty and sharp. |
| at dawn | 夜明けに | In spring, the dawn is lovely. |
練習: 「にくきもの」を英語で三つ書いてみましょう(例: People who talk loudly on the train.)。