李舜臣はなぜ13隻で勝てた?鳴梁海戦と朝鮮水軍の名将

李舜臣はなぜ13隻で勝てた?鳴梁海戦と朝鮮水軍の名将

李舜臣は海戦で一度も負けなかったとされ、1597年の鳴梁海戦ではわずか13隻で300隻以上の艦隊を退けました。その勝因と生涯を解説します。

李舜臣(イ・スンシン)は1597年の鳴梁(ミョンリャン)海戦で、わずか13隻の船で、戦船133隻を含む333隻の日本艦隊を退けました。勝因は、潮の流れが非常に速い狭い海峡を戦場に選び、地形と潮流で敵の数の有利を打ち消したことです。 文禄・慶長の役(朝鮮では壬辰倭乱、1592–1598年)で彼は少なくとも23回の海戦を戦い、すべてに勝ったとされます(正確な数には議論があります)。 さらに劇的なのは、鳴梁の直前に、彼が自国の朝廷によって投獄され、拷問を受け、一兵卒に降格されていたことです。

遅咲きの武官

李舜臣は1545年4月28日、漢城(今のソウル)で生まれました。 武科(武官の試験)に合格したのは1576年、三十代になってからで、その後も長く北方の辺境で地味な任務に就きました。 戦争の少し前に朝鮮南西部の水軍の指揮官となり、その時間を備えに使いました。

戦争の始まりと亀甲船

1592年、豊臣秀吉が統一した日本は大軍で朝鮮に攻め込みました。陸では日本軍が急速に進みましたが、海では李舜臣の水軍が勝利を重ね、補給に欠かせない海路を断っていきます。

彼の代名詞が、屋根で覆われ側面から砲を撃つ「亀甲船(コブクソン)」です。李舜臣はこの船を設計・建造して艦隊に加えました。 ただし「覆いのある軍船そのものを発明した」という説は1908年の日本の海軍軍人の本にさかのぼるもので、正確には「開発し、効果的に使った」と言うべきでしょう。 艦隊の主力は頑丈な板屋船で、本当の強みは大砲、規律、そして沿岸の地理を知り尽くしていたことでした。

閑山島海戦の「鶴翼の陣」

1592年の閑山島海戦では、日本艦隊を広い海に誘い出し、半円形の「鶴翼の陣」で包み込みました。日本側は59隻を失い、うち47隻が破壊、12隻が拿捕されました。

味方に捕らえられる

1597年、宮廷の陰謀の中で彼は指揮権を解かれ、投獄されて拷問を受けました。死刑は免れたものの一兵卒に降格されます。 後任の元均が漆川梁で大敗して水軍がほぼ壊滅すると、朝廷は彼を復帰させました。 このとき彼は「まだ戦船が十二隻あり、自分も生きている」と朝廷に書き送っています。旗艦を含めると十三隻でした。

鳴梁:13隻対333隻

彼が選んだ戦場は、潮が速く向きも変わる狭い鳴梁海峡でした。そこでは日本側は数を生かせず、潮流そのものが武器になりました。 13隻は持ちこたえ、潮の向きが変わると攻め手は退却を余儀なくされました。

「わが死を知らせるな」

1598年12月16日、戦争最後の大海戦である露梁海戦で流れ弾に当たり、彼は戦いに響かないよう自分の死を知らせるなと部下に言い残したと伝えられます。 陣中日記『乱中日記』はユネスコ「世界の記憶」の一部で、2019年の韓国ギャラップ調査では「最も尊敬する人物」に選ばれました。

名将を支えた幼なじみと最初の挫折

李舜臣の家は徳水李氏に属し、父は李貞、母は草渓卞氏の卞氏夫人でした。 漢城の乾川洞で近所に住んでいた柳成龍は幼なじみで、のちに朝廷の重臣として彼の出世を後押ししました。二人が初めて会ったのは李舜臣が22歳、柳成龍が25歳のときだったとする記録もあります。 武科への最初の挑戦では、騎馬の試験の最中に脚を折って不合格となり、あらためて受け直して1576年に合格しました。 名将の経歴が、けがによる失敗から始まっていることは、どこか励まされる話です。

北方での手柄と濡れ衣

北方の咸鏡道では、女真族の襲撃に備える任務に就きました。1583年には女真を誘い出して戦い、その首領を捕らえる手柄を立てています。 ところが上官たちは逆に彼を脱走の罪で訴え、李舜臣は官位を奪われて投獄され、拷問を受けました。 1597年の投獄より前に、彼はすでに一度、味方の讒言で地位を失っていたのです。実力を示すほど妬まれるという構図は、彼の生涯に何度も繰り返されました。

開戦の一年前に始まった準備

1590年の終わり、李舜臣は全羅左道水軍節度使に任命され、1591年3月13日に麗水に着任すると、地域の水軍の立て直しに取りかかりました。 この準備が、翌年の戦争で生きることになります。1592年6月13日、李舜臣は李億祺とともに、板屋船24隻を含む艦隊で出航し、玉浦で約50隻の日本船を見つけて撃破しました。翌日には赤珍浦で13隻のうち11隻を沈め、味方の船は一隻も失いませんでした。 約3週間後の泗川の戦いでは、退却を装って港から12隻をおびき出し、すべてを撃破しましたが、彼自身も左肩を撃たれています。 同じ年の秋には釜山の港も攻撃しましたが、上陸部隊がなかったため撤退しました。

喪失の年、1597年

家系の記録によれば、母の卞氏夫人は1515年から1597年、息子の李葂は1577年から1597年を生きたとされています。 つまり李舜臣は、投獄と降格、そして鳴梁での決戦があった同じ年に、母と息子の両方を失っていたことになります。私生活の悲しみを抱えたまま13隻で大艦隊に向き合ったと考えると、鳴梁の勝利はいっそう重みを増して見えてきます。死後には「忠武公」の称号が贈られ、今もソウル中心部の世宗路と釜山タワーに彼の像が立っています。

李舜臣で覚える日本語表現

表現 意味 例文
多勢に無勢 少人数では大勢にかなわない 多勢に無勢と思われたが勝った。
形勢を逆転する 不利な状況をひっくり返す 最後の一手で形勢を逆転した。
地の利を生かす 場所の有利さを利用する 狭い海峡という地の利を生かした。
背水の陣 後がない覚悟で臨むこと 背水の陣で試験に臨んだ。
踏みとどまる 押されても退かない 最後まで踏みとどまった。

練習問題: 語学の勉強で「地の利を生かせる」場面を考え、「形勢を逆転する」も使って三文で書いてみましょう。

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