尹奉吉(ユン・ボンギル)とは?上海天長節爆弾事件と日韓で分かれる評価

尹奉吉は1932年、上海の虹口公園で日本の天長節祝賀式典に爆弾を投げた朝鮮の独立運動家です。生い立ち、事件の経過、金沢での処刑、日韓での受け止め方を解説します。

尹奉吉(ユン・ボンギル、1908年6月21日–1932年12月19日)は朝鮮の独立運動家で、号は梅軒です。日本では1932年の「上海天長節爆弾事件」の実行犯として知られています。式典会場で爆弾を投げて要人2名を含む多数を死傷させ、自爆には失敗してその場で逮捕され、軍法会議の死刑判決ののち、日本国内で刑が執行されました。 一方、韓国では独立運動の「義士」として顕彰されており、日本と韓国で受け止め方が大きく異なる人物です。

農村の教育者として

尹奉吉は忠清南道の礼山に生まれました。 1918年に地元の普通学校に入りましたが、翌年、植民地の教育を拒んで退学し、朝鮮語と漢文を教える村の書塾で学びました。 若いころの彼は運動家である前に教育者でした。1926年ごろから故郷で農村の人々のための夜学を開き、読書会をつくり、学校に通えない貧しい若者が読み書きを学ぶための教科書『農民読本』を書きました。 農村の復興を目指す団体や体育会もつくりましたが、風刺劇「兎と狐」を上演した村の催しのあと、日本の特別高等警察に目をつけられるようになります。

「生きては帰らない」と書き残して

1919年、尹奉吉が学校をやめた年には、朝鮮全土で三・一独立運動が起き、日本の官憲によって激しく鎮圧されていました。その後の弾圧で、多くの活動家が中国へ逃れています。 尹奉吉もやがて故郷を離れる決心をし、国のために死んで大きなことを成し遂げるまで生きては帰らない、という手紙を残しました。 満洲の独立軍はいくつもの派に分かれて停滞していたため、彼は上海にある大韓民国臨時政府を目指し、途中の青島では工場で働いて旅費をためました。上海では英語学校にも通っています。

上海へ、そして金九のもとへ

1930年代に入ると、尹奉吉は独立運動に本格的に身を投じる決意をし、満洲を経て上海に渡りました。 1931年、上海で金九が組織した抗日武装組織、韓人愛国団に加わり、事件の準備を進めます。 金九は、同じ年の初めに東京の桜田門で起きた李奉昌による天皇襲撃が失敗したことを教訓に、爆弾を念入りに準備しました。日本語が流暢で決意の固い尹奉吉が実行役に選ばれ、4月26日、彼は太極旗の前で誓いを立て、その姿が写真に残されています。

1932年4月29日、虹口公園で何が起きたか

第一次上海事変の停戦交渉が進んでいた1932年4月29日、天長節(天皇誕生日)の日に、上海の共同租界にある虹口公園で祝賀式典が開かれました。会場に入り込んだ尹奉吉は、要人たちの席に向かって爆弾を投げつけ、多数を死傷させました。 爆弾は水筒に見せかけたものでした。

この爆発で、上海派遣軍司令官の白川義則陸軍大将と、上海日本人居留民団の行政委員長だった医師の河端貞次が亡くなりました。第三艦隊司令長官の野村吉三郎海軍中将、第9師団長の植田謙吉陸軍中将、上海駐在公使の重光葵らも重傷を負いました。 1945年9月、東京湾の戦艦ミズーリ号の上で降伏文書に署名した外相の重光葵が杖をついていたのは、この事件で片足を失ったためです。 尹奉吉は弁当箱に見せかけた2つ目の爆弾で自爆しようとしましたが、爆発せず、その場で取り押さえられました。

軍法会議と金沢での処刑

5月25日、尹奉吉は上海派遣軍の軍法会議で死刑判決を受けました。この軍法会議は弁護人なし、一審かぎりの特設軍法会議でした。 民間人を軍法会議で裁いたことについて、海軍の法律顧問だった信夫淳平は、事件の起きた虹口公園は日本軍の占領地ではなく作戦地域とはいえない、と疑問を示しています。

尹奉吉は11月18日に大阪へ移され、12月18日には陸軍第9師団の駐屯地である石川県金沢市に移されました。12月19日午前7時27分、市内の三小牛山で銃殺刑に処され、遺体は野田山の陸軍墓地の崖下に埋葬されました。

死後の評価

当時の中華民国の指導者、蔣介石は事件を聞いて「中国の100万の大軍もできないことを朝鮮の一青年がやり遂げた」と評価し、それまで重視していなかった大韓民国臨時政府を支援するようになりました。 一方、のちに韓国の初代大統領となる李承晩は、この事件や金九の暗殺戦術に反対しました。日本に朝鮮での弾圧を正当化する口実を与えるから、というのが理由でした。

蔣介石はその後も、事件は中国のために行われたものだと評価して両国の友好の礎と考えていたといわれ、韓国の軍人・金錫源は回顧録で、天長節の祝賀式の壇上に爆弾を投げて白川大将を倒し、韓国人の気概を世界に示したと書いています。 韓国では安重根、金佐鎮、柳寛順と並んで、韓国海軍の潜水艦の艦名にもなっています。 遺骨は1946年3月6日、在日の朝鮮人によって掘り起こされ、韓国に持ち帰られて、ソウルの孝昌公園に改葬されました。韓国政府は1962年に建国勲章大韓民国章を贈っています。遺体が埋葬されていた金沢市にも慰霊碑が建てられ、ソウルには梅軒尹奉吉記念館、上海の魯迅公園(旧虹口公園)には記念館「梅亭」があります。

尹奉吉で学ぶ日本語表現

表現 意味 例文
身を投じる ある活動に全力で加わる 彼は独立運動に身を投じた。
目をつけられる 警戒されて注目される 彼は警察に目をつけられた。
決意を固める 迷わず心を決める 青年は上海で決意を固めた。
取り押さえる 逃げないようにつかまえる 犯人はその場で取り押さえられた。
評価が分かれる 人によって判断が違う この事件は国によって評価が分かれる。

練習: 「身を投じる」と「評価が分かれる」を使って、歴史上の人物について三つの文を書いてみましょう。

尹奉吉で外国語を学ぶ

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