鄭夢周と「丹心歌」:高麗最後の大学者と善竹橋の悲劇
鄭夢周(1337–1392年)は高麗末期の学者・外交官・政治家で、新しい朝鮮王朝に加わることを拒み、詩には詩で答え、善竹橋で暗殺されました。その生涯を紹介します。
鄭夢周(チョン・モンジュ、1337–1392年)は、号を圃隠(ポウン)という高麗末期の学者・外交官・政治家で、傾きかけた王朝を立て直しながら守ろうとしました。のちに朝鮮王朝を開く将軍・李成桂に対抗し、高麗が滅んだ1392年、開城の善竹橋で暗殺されました。 彼の忠節の詩「丹心歌」は韓国語でもっとも有名な詩の一つで、その死は揺るがない忠誠の象徴になりました。
抜きんでた学者
鄭夢周は、学問、外交、経済、軍事、政治のすべてにすぐれた、高麗末期最後の大人物とされています。 23歳のとき三つの科挙に続けて合格し、どれも最高の成績をおさめました。 朱子学(性理学)の第一人者となり、のちに何百年も朝鮮社会を形づくる教えを広めました。
明と日本への使節
外交官としても有能でした。1372年に明への使節となり、倭寇の侵入がはげしかった1377年には、交渉のため日本の九州へ派遣されています。 危険で難しい任務をまかされたことからも、朝廷が彼の判断力をどれほど信頼していたかがわかります。
改革か、王朝交代か
はじめ鄭夢周は、1388年の威化島回軍で実権を握った李成桂を支持し、その穏やかな改革の一部には賛成していました。 しかしやがて、李成桂と鄭道伝ら急進派が、高麗を改革するのではなく新しい王朝に取りかえようとしていることに気づき、古い王朝を守る道を選びます。
詩には詩で
言い伝えによれば、李成桂の五男・李芳遠は宴の席で時調「何如歌」を詠み、鄭夢周の心を試しました。「こうであれ、ああであれ、かまわないではないか。万寿山の葛のつるのように、私たちもからみあって百年を楽しもう」という意味です。 これに鄭夢周は「丹心歌」で答えました。「この身が死に、また死んで、百たび死に、白骨が土となり、魂があろうとなかろうと、君に向かう一片の真心が変わることなどあろうか」。 答えははっきりしていました。
善竹橋での死とその後
1392年4月、李成桂が落馬して大けがをすると、鄭夢周はこの機に一派をくじこうとしますが、李芳遠が父を都に連れもどして失敗します。 まもなく同年5月4日、鄭夢周は開城の善竹橋で李芳遠の手の者に襲われ、命を落としました。 橋のそばに竹が生え、石に残る赤い跡は消えない血だという伝説があります。同じ年、474年続いた高麗は終わり、朝鮮王朝が始まりました。 驚くことに、のちの朝鮮の王たちは、彼を殺させた人物の子孫でありながら、鄭夢周を忠臣としてあがめました。
時調という詩の形
「何如歌」と「丹心歌」は、どちらも「時調(シジョ)」という韓国の短い定型詩です。三つの句からなり、最後の句で思いをぴしりと言い切るのが特徴で、日本の和歌や俳句と同じく、声に出して味わう文学として親しまれてきました。この二首は、同じ形式を使いながら、片方は「いっしょに生きよう」と誘い、片方は「死んでも心は変わらない」と拒むという、正反対の答えになっています。韓国の学校ではこの二首をセットで習い、王朝が入れかわる時代の緊張を、たった六句から感じとります。今も開城には善竹橋が残り、彼の忠節を伝える場所として知られています。
永川に生まれた長男
鄭夢周は1337年、慶尚道の永川で、延日鄭氏の家に五人きょうだいの長男として生まれました。 陰暦では1337年12月22日にあたり、太陽暦に直すと翌年の1月13日になるため、生年は資料によって少しずれて見えることがあります。 父の鄭云瓘は1311年生まれで、鄭夢周がまだ十代だった1355年に亡くなり、母も1365年に世を去りました。 若くして両親を失った長男が、のちに国の柱と呼ばれる学者になったわけです。三人の弟のうち鄭過は兄と同じ1392年に亡くなっており、王朝交代の嵐が一家全体を巻きこんだことがうかがえます。
成均館の教壇に立つ
科挙に合格したあと、鄭夢周は1367年から国の最高学府である国子監(当時の呼び名は成均館)で朱子学を教えるようになり、同時に官職も務めました。 つまり彼は、政治の現場に立ちながら、次の世代の官僚に学問を手ほどきする教師でもあったのです。禑王の時代には官僚としてさまざまな国家事業に関わり、朱子学の理論を研究する機関もつくったと伝えられています。 外交や政治の顔ばかりが語られがちですが、教室で若者に向き合った時間こそ、のちの朝鮮の学風に長く影響を残した部分だといえるでしょう。
殺した側がたたえた忠臣
不思議なことに、鄭夢周の名誉を最初に形にしたのは、彼を殺させた李芳遠でした。のちに朝鮮の三代国王・太宗となる李芳遠は、墓碑に「高麗の守り手」という意味の言葉を刻ませたといいます。 さらに死から125年後の1517年、鄭夢周は国の儒学の殿堂である成均館に祀られました。 新しい王朝にとって、主君に命をささげた忠臣の姿は、むしろ自分たちの臣下に求める理想そのものだったのかもしれません。墓は京畿道の龍仁にあり、妻と並んで葬られています。 妻の慶州李氏も夫の死と同じ1392年の12月に亡くなりました。 子孫は今も世界各地に暮らし、28代から36代にあたる人々がいるとされています。子どもは妻とのあいだに1374年生まれの鄭宗誠、1377年生まれの鄭宗本という二人の息子と三人の娘がいました。 長男の宗誠は1442年まで生き、父の死後も半世紀にわたって朝鮮の世を見届けたことになります。
鄭夢周で覚える韓国語
| 韓国語 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| 충성 (チュンソン) | 忠誠 | 충성을 지켰어요. |
| 마음 (マウム) | 心 | 마음이 변하지 않아요. |
| 다리 (タリ) | 橋 | 다리를 건너요. |
| 시조 (シジョ) | 時調(韓国の定型詩) | 시조를 읽어요. |
| 일편단심 (イルピョンダンシム) | ひたむきな真心 | 일편단심이에요. |
練習問題: 何かを信じつづけた経験を日本語で三文書き、마음か충성を使った短い韓国語の文も作ってみましょう。