白東脩(ペク・ドンス)とは?朝鮮の名武人と武芸書『武芸図譜通志』

白東脩(1743–1816年)は、身分のために長く官職に就けなかった朝鮮王朝の武人で、朝鮮を代表する図入りの武芸書『武芸図譜通志』の編纂者の一人です。

白東脩(ペク・ドンス、1743–1816年)は朝鮮王朝の武官であり武芸の達人で、正祖(チョンジョ)王の命で作られた図入りの武芸書『武芸図譜通志』を編んだ三人のうちの一人として知られています。 剣と槍の名手と称えられながら、家柄のせいで長いあいだ官職に就けませんでした。 今では2011年のドラマで彼を知った人も多いでしょうが、実際の物語は、硬い身分制度に才能で立ち向かった人の話です。

「庶子」の家に生まれて

朝鮮の社会は身分の上下が厳しく、側室の子とその子孫は「庶孼(ソオル)」とされ、どれほど有能でも官職への道を大きく制限されました。白東脩もその一人で、祖父が庶子の出だったため、家全体がその身分になっていました。 この境遇は、同じ立場にあった優れた学者たちとの縁ももたらします。姉妹の夫にあたる李徳懋(イ・ドンム)や朴斉家(パク・チェガ)も、生まれの壁に苦しんだ俊才でした。

名門の血筋と剣の師

白東脩の本貫は水原で、字は永叔、号は野餒・靭斎といいました。 曾祖父の白時耈(1649–1722年)は平安道の兵馬節度使を務めた武人でしたが、祖父の白尚華(1691–1768年)は長淵県監を務めたものの庶子だったため、白東脩は庶孼の身分に属することになりました。 父の白師宏は同知中枢府事を務め、弟に白東幹がいました。 剣の技は、名剣士・金体乾の息子である金光沢から朝鮮の剣法を伝授されたとされています。 丹学で内なる力を鍛え、医術も身につけていたと伝えられています。

試験に受かっても職がない

1771年、彼は武科に合格して下級の職に任じられましたが、身分と職の不足のために実際には職を得られませんでした。 腕の立つ武人にとって、資格はあるのに待つしかないという、もどかしい日々でした。

山奥での暮らしと友人たち

武科に合格しても職を得られなかった白東脩は、1773年、貧しさのために都の漢城を離れ、江原道の麒麟峡に移って畑を耕し家畜を飼って暮らしました。 この不遇の時代を支えたのが友人たちです。彼は燕巌・朴趾源や李徳懋と親しい友でした。 李徳懋は文集『青荘館全書』の中で、白東脩を「別の世界に遊ぶ人のようだった」と評しています。 朴趾源や成大中らは、彼が武によって文を成し遂げた人だと評価しました。

正祖の新しい親衛隊

転機は改革を進めた正祖王の時代に訪れます。王権を強め、生まれにかかわらず有能な人材を登用しようとした正祖は、新たな親衛部隊「壮勇営(チャンヨンヨン)」を作り、白東脩は剣術と槍術の第一人者として推薦されました。 その後、壮勇営などで部隊の指揮官を務めています。

『武芸図譜通志』

1789年から1790年にかけて、正祖は李徳懋、朴斉家、白東脩に総合的な武芸書の編纂を命じました。 学者たちが調査と執筆を担い、白東脩は武芸の達人として実技の知識を注ぎ込みました。全4巻のこの書は、以前の武芸書の18種の武器術を広げ、騎馬戦の技を加えたものです。 第1〜3巻はおもに槍や長柄の武器、剣術を、第4巻は素手の格闘、棒や連枷、馬上の戦いを扱い、動きの一つ一つが絵で示されています。 18世紀朝鮮の軍事を知る重要な資料とされています。

学者と武人の協力

この本が特別なのは、机の上の学問と体で覚えた技とが一冊にまとまった点です。李徳懋と朴斉家は古い中国や日本の武芸書を読み比べ、言葉や出典を整えました。いっぽう白東脩は、実際に剣や槍を振るってきた経験から、どの動きが本当に使えるのかを確かめる役目を担ったと考えられています。生まれの壁に苦しんだ三人が、王の後ろ盾を得て国の大事業に名を残したことは、それ自体が時代の変化を物語っています。身分の低い者でも腕と知恵があれば役に立てる、という正祖の考えが形になった仕事だったのです。

一歩ずつ上った官職

1776年に正祖が即位すると、白東脩は壮勇営の槍と剣の人材として推薦されました。 その後の歩みは一歩ずつでした。1787年に集春営の哨官、1788年に御営庁の哨官となり、1789年には壮勇営の哨官を務めながら『武芸図譜通志』の編纂に加わっています。 1790年には訓錬主簿、1791年には訓錬判官に進みました。 1796年には長興庫の主簿も務め、1802年に平安道の博川郡守となったときには把総を兼ねています。 1795年には正祖の母・恵慶宮洪氏の還暦の祝宴に訓錬僉正として加わっています。 1806年の流配は、領議政の李秉模が関西地方の不正を訴えたことから始まり、白東脩は慶尚道の丹城県に送られました。 1816年に亡くなり、白心鎮と白性鎮という二人の息子がいました。

地方官、流配、そして復帰

のちに忠清道の庇仁(1792年)や博川(1802年)の地方官を務めましたが、1806年に不正の罪で流配されます。その後復帰し、1810年には軍器寺の副正(軍需品を扱う役所の次官)になりました。

歴史からドラマへ

2011年、韓国のSBSは彼の生涯を大胆に脚色したドラマ『武士ペク・ドンス』を放送し、チ・チャンウクが主演しました。 多くの時代劇と同じく創作も多いものの、彼の名を広め、伝統武芸への関心を高めるきっかけになりました。今、朝鮮の武芸を復元して稽古する人々は、この『武芸図譜通志』を主な手がかりにしています。

白東脩で覚える日本語表現

表現 意味 例文
生まれの壁 出身による障害 彼は生まれの壁に苦しんだ。
腕が立つ 技術がすぐれている 腕が立つ剣士だった。
日の目を見る 世に認められる ようやく才能が日の目を見た。
登用する 人を引き上げて使う 王は有能な人を登用した。
型どおり 決まったやり方のとおり 型どおりに稽古する。

練習問題: 自分や身近な人が乗り越えた壁について、「生まれの壁」「日の目を見る」を使って三文で書いてみましょう。

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