ベラスケスはなぜ「画家の中の画家」と呼ばれる?生涯と代表作をたどる
スペイン黄金時代を代表する宮廷画家ベラスケス。セビーリャでの修業から『ラス・メニーナス』まで、生涯と代表作、マネが称えた理由を紹介します。
ディエゴ・ベラスケスが「画家の中の画家」と呼ばれるのは、フランスの画家エドゥアール・マネがそう称えたからです。ベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代だった17世紀を代表する巨匠です。 マネは彼の絵の生き生きとした筆づかいと、その場で描いたような直接性に心を打たれ、自分の作品にもベラスケスのモチーフを取り入れました。
セビーリャでの修業時代
ベラスケスは1599年6月6日にスペイン南部のセビーリャで洗礼を受けました。11歳ごろ、地元の有力な画家フランシスコ・パチェーコに弟子入りし、6年後の1617年に独立します。翌1618年には師匠の娘フアナと結婚しました。 父方の祖父母はポルトガルからセビーリャに移り住んだ人々でした。
当時のスペインでは、台所の情景や静物を描く「ボデゴン(厨房画)」が多く描かれていました。宮廷画家になる前のベラスケスもこのジャンルの作品を手がけ、1618年の『卵を調理する老女』はその代表作です。 暗い背景に強い光が当たる劇的な表現には、カラヴァッジョの影響があったとも考えられています。
フェリペ4世の宮廷画家に
1623年、二度目のマドリード訪問の際に、首席大臣オリバーレス伯公爵の紹介で国王フェリペ4世の肖像画を描きました。王に気に入られて宮廷画家となり、以後30年あまり、国王や王女をはじめ宮廷の人々の肖像画や、王宮を飾る絵を描き続けます。 美術を愛したフェリペ4世は彼を厚くもてなし、アトリエにもたびたび出入りしていたといいます。
1628年には、フランドルの巨匠ルーベンスが外交使節としてマドリードに滞在しました。ルーベンスはベラスケスを高く評価し、彼の中にイタリアの名画を見たいという思いを強くかき立てました。
『ブレダの開城』と二度のイタリア旅行
1634年から35年に描かれた『ブレダの開城』は、同時代の歴史を描いた唯一現存する作品です。勝者が馬上から敗者を見下ろすというお決まりの構図をとらず、スペインの将軍がオランダの将軍と対等に向き合う姿を描きました。
1649年、彼は国王のために絵を買い集める目的で再びイタリアへ向かいます。同行したのは、当時奴隷の身分で、ベラスケスから絵を学んだ助手フアン・デ・パレハでした。 ローマで描いた『教皇インノケンティウス10世の肖像』は高く評価され、イギリスの画家レノルズはローマでいちばんすばらしい絵だと考えました。
『ラス・メニーナス』と晩年
晩年には、王家の人々を描いた集団肖像『ラス・メニーナス』と、女神ミネルヴァに罰せられる機織り女アラクネを描いた神話画『織女たち』という二つの傑作を生みました。 『ラス・メニーナス』の中の画家自身の胸にはサンティアゴ騎士団の赤い十字が描かれています。国王が描き加えたとも伝えられますが、ベラスケスが実際に騎士の称号を得たのは、絵の完成から3年後のことでした。
当時、画家は職人としての地位しか認められていませんでしたが、フェリペ4世は晩年のベラスケスに宮廷装飾の責任者を任せ、王の側近としての地位を与えていました。 1660年8月6日、ベラスケスはマドリードで亡くなります。埋葬された教会は1809年ごろフランス軍に破壊され、墓の場所は今ではわかっていません。
遅れてやってきた名声
作品の多くが王室コレクションに入っていたため、世界的な画家として認められたのは1850年ごろと遅く、名声の絶頂は印象派の時代にあたる1880年から1920年でした。 20世紀になっても、ピカソ、ダリ、フランシス・ベーコンが彼の有名な作品を自分なりに描き直しています。 王室コレクションの作品の大部分は、現在マドリードのプラド美術館で見ることができます。
ベラスケスで学ぶ日本語表現
| 表現 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| 目をかける | 特に気に入って大事にする | フェリペ4世はベラスケスに目をかけた。 |
| 頭角を現す | 才能が目立ってくる | 彼は若くして頭角を現した。 |
| 対等に向き合う | 上下なく同じ立場で接する | 二人の将軍は対等に向き合っている。 |
| 肩を並べる | 同じくらいの力を持つ | 彼はイタリアの巨匠と肩を並べる。 |
| 後世に名を残す | 後の時代まで名前が伝わる | ベラスケスは後世に名を残した。 |
練習: 「頭角を現す」と「後世に名を残す」を使って、好きな画家を三文で紹介してみましょう。