亀州の戦いで高麗はどう勝ったのか?71歳の総司令官・姜邯賛

亀州の戦いで高麗はどう勝ったのか?71歳の総司令官・姜邯賛

1019年、文官出身で71歳の姜邯賛は、遼(契丹)の軍を消耗させたうえで亀州で破った。戦いの流れと伝説を分けて紹介する。

1019年の亀州(クィジュ)の戦いで高麗が勝てたのは、侵攻してきた遼(契丹)の軍を、正面からぶつかる前に徹底して消耗させたからです。総司令官の姜邯賛(カン・ガムチャン)は、渡河中の敵に損害を与え、補給路を断ち、都に迫ってから引き返すまで攻撃を続け、疲れ切って北へ退く軍を亀州付近で撃ちました。 驚くのは、その指揮官が科挙に首席で合格した文官で、指揮を執ったとき71歳だったことです。

高麗と遼:背景

高麗は918年に建てられた朝鮮の王朝で、都は開京(現在の開城)でした。北西では契丹人が遼という大国を築き、満州やモンゴル、華北の一部を治めていました。両国は何度も戦い、1010年には遼軍が高麗の都にまで達します。このとき姜邯賛は、降伏せずに都を離れるよう顕宗に進言し、王は難を逃れました。 1018年、蕭排押(しょう・はいおう)が約10万の兵を率いて鴨緑江を越え、ふたたび侵攻してきました。

1010年、都を離れるという決断

1010年の二度目の侵攻は、遼の聖宗が、高麗の武将・康兆が起こした政変を口実に大軍を送りこんだものでした。 このとき姜邯賛は降伏に反対し、いったん退くべきだと主張しました。王は南の羅州まで避難し、国の命脈は守られました。 その後、河拱辰が敵を説得して遼軍は引き揚げ、帰っていく遼軍は楊規に背後から攻撃されています。

試験場から戦場へ

姜邯賛は948年、衿州(現在のソウル市冠岳区)に生まれました。 父は高麗の太祖に仕えた人物です。964年に父を亡くしたあと各地を巡り、983年、36歳で科挙に首席で合格しました。 その後は教育や王の文書に関わる官職を歴任し、1011年には詔勅を起草する翰林学士になっています。 軍人ではなく、学問と行政の人でした。

71歳での出陣

1018年の侵攻に対し、姜邯賛は抗戦を主張し、自ら指揮を買って出ました。このとき71歳。率いた軍は約20万8千と記録されています。 ただし前近代の兵力の数字は出典によって異なり、目安として読むのが妥当です。

興化鎮の堰と補給の遮断

戦いの初め、興化鎮で高麗軍は小川をせき止め、契丹軍が渡るときに堰を切って大きな損害を与えたとされます。 それでも遼軍は南下して開京に迫りました。姜邯賛は一度の決戦に賭けず、補給路を断ってしつこく攻撃を加え続けます。食糧の乏しくなった遼軍は、あわただしく北へ退きはじめました。

亀州の戦い

1019年3月10日、亀州(現在の北朝鮮・亀城)付近で、高麗軍は退却する遼軍をとらえ、完全な勝利を収めました。 遼の指揮官はわずかな生存者とともに逃れたと伝えられます。

その後の和平:二つの見方

戦いのあと両国は交渉し、遼が再び朝鮮に侵攻することはありませんでした。和平の中身については研究者の見方が分かれます。高麗が遼に朝貢する関係を受け入れたとする説明もあれば、高麗が宋との関係や独自の年号を保ち、1022年に対等な形で講和したとする説明もあります。

金の花八輪と出世の階段

亀州での勝利のあと、凱旋する姜邯賛を顕宗は迎波駅まで自ら出迎え、金で作った八輪の花「金花八枝」をその頭に挿してたたえたと伝えられます。 官職も上がり続けました。1019年には天水県開国男に、1020年には天水県開国子に封じられています。 1030年には官僚の最高位である門下侍中にのぼり、亡くなった1031年には天水郡開国侯に至りました。 幼いころの名は殷川、死後に贈られた諡は仁憲といいます。 父の名は姜弓珍で、「三韓壁上功臣」の称号を受けた人物でした。

小柄で質素な名将

『高麗史』によれば、姜邯賛は体が小さく、顔立ちも見栄えがせず、着ている物もみすぼらしかったといいます。 それでも宋の使者は彼を見て、学問をつかさどる星「文曲星」だと感嘆したという逸話が残っています。 『楽道郊居集』と『求善集』という著作があったものの、今には伝わっていません。 1968年には忠清北道清州市玉山面で墓誌石が見つかり、そこに祠堂の忠賢祠が建てられました。 現代の韓国海軍には、彼の名をとった駆逐艦「姜邯賛艦」もあります。

伝説と記憶

姜邯賛は1020年に引退し、1031年に82歳で亡くなりました。 生まれた日に星が家に落ちたという伝説があり、その地は「落星垈(ナクソンデ)」と呼ばれ、ソウル地下鉄2号線の駅名にもなっています。

この話から何を読み取るか

姜邯賛の物語が今も語られる理由の一つは、「勝ち方」にあります。強い相手に正面からぶつからず、地形を使い、補給を断ち、相手が弱ったところで決着をつける。派手な一騎打ちではなく、準備と忍耐の積み重ねによる勝利でした。もう一つは、主人公が若い武将ではなく、長く文官として生きてきた老人だったことです。学問で身を立てた人が、国の危機に経験と判断力で応えたという点が、多くの人の心に残っています。

一方で、兵力の数字や「堰を切った」場面の細部は、史料によって伝え方が異なります。また和平の評価も一つではありません。歴史を読むときは、印象的な場面だけでなく、記録がどこから来たのかにも目を向けたいところです。韓国ではソウル冠岳区の舎堂洞に、彼をまつる祠堂「安国祠」があります。

姜邯賛で学ぶ日本語表現

表現 意味 例文
買って出る 自分から引き受ける 彼は71歳で指揮を買って出た。
首席で合格する 一番の成績で受かる 科挙に首席で合格した。
補給路を断つ 物資が届かないようにする 敵の補給路を断った。
一か八かに賭けない 危ない勝負をしない 一か八かに賭けず、敵を疲れさせた。
年齢は関係ない 年は問題ではない 挑戦に年齢は関係ない。

練習: 年齢に関係なく何かに挑戦した人について、「買って出る」と「年齢は関係ない」を使って日本語で三文書いてみましょう。

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