金九とはどんな人物?大韓民国臨時政府を率い、南北分断に反対した白凡の生涯
金九(1876–1949)は号を白凡といい、上海の大韓民国臨時政府を率いた独立運動家。解放後は南北分断に反対し、1949年に暗殺されました。
金九(キム・グ、1876–1949)は、号を白凡(ペクポム)といい、日本統治期に朝鮮の独立運動を率いた人物です。中国で活動した大韓民国臨時政府では、何度も最高位を務めました。 1945年の解放後は朝鮮半島の分断を防ごうと動きましたが、朝鮮戦争の前年の1949年にソウルで暗殺されました。 韓国では広く敬愛され、韓国史で最も重要な人物の一人とみなされています。
時代背景
19世紀末の朝鮮王朝は列強の圧力にさらされ、日本の影響力が強まっていきました。朝鮮は1905年に日本の保護国となり、1910年に併合されます。独立を求める人々の多くは国外、とくに中国で活動し、1919年には上海で臨時政府がつくられました。金九の生涯は、この流れのすべてと重なっています。
海州の農家に生まれて
金九は1876年8月29日、黄海道海州の村で、貧しい農家の一人息子として生まれました。幼名は金昌巌です。 号の「白凡」は、当時身分の低い職業とされた白丁の「白」と、普通の人を意味する凡夫の「凡」から取ったもので、身分の低い人々も独立のために立ち上がるべきだという考えを込めたものだといいます。
東学と鴟河浦事件
1893年、彼は宗教・社会運動である東学に加わり、1894年の農民蜂起では海州の城を攻めましたが、政府軍と日本軍に敗れました。
1896年3月、鴟河浦の宿で、金九は1895年の閔妃(明成皇后)殺害事件に関わっていると疑った日本人の男性を殺害し、王妃の仇を討つためだという文書を残しました。金九はこの男性を日本軍の将校だと考えていましたが、英語版ウィキペディアによると、現在では対馬出身の民間の商人・土田譲亮だったという見方が一般的です。 死刑を言い渡されたものの国王・高宗が執行を認めず、獄中で他の囚人に読み書きを教えたのち、1898年に脱獄しました。
教師、キリスト教徒、そして再びの投獄
その後、一時は仏門に入り、1903年にプロテスタントの洗礼を受けて教師や校長として働きました。1907年には独立運動団体の新民会に加わっています。 1911年のいわゆる「105人事件」で逮捕され、懲役15年の判決を受けて西大門刑務所で拷問を受け、1915年に仮釈放されました。「金九」という名はこの服役中の1912年に名乗ったものです。
上海の大韓民国臨時政府
1919年の三・一運動のあと、同年4月に上海に渡り、臨時政府の警務局長となりました。 その後、1926年から1927年には政府の首班を、1940年から1947年には主席を務めています。 自伝『白凡逸志』の第1巻を書き上げたのは1929年でした。
1930年代の武装闘争
1931年、金九は日本の皇室や植民地統治の要人を標的とする秘密組織、韓人愛国団を結成しました。1932年1月には団員の李奉昌が東京で昭和天皇に手榴弾を投げましたが外れ、同年4月には尹奉吉が上海の虹口公園の式典で爆弾を投げ、日本の軍や植民地行政の幹部が死傷しました。二人はいずれも同年に処刑されています。 金九はこれらの行動について、自分が責任者であると公に表明しました。 1940年には臨時政府のもとで韓国光復軍が正式に創設されました。
追われる身の指導者と家族
こうした闘争の代償は、金九の暮らしにも重くのしかかりました。妻の崔遵礼は1924年1月、上海の病院で亡くなりましたが、手配中だった金九は最期を看取ることができませんでした。 長男の金仁は1920年8月に母と上海へ来て、1927年9月に故郷へ帰され、次男の金信は1922年9月に生まれています。
1932年の尹奉吉の事件のあと、金九は上海を抜け出し、江蘇省の嘉興で偽名を使って身を隠しました。1933年に日本の警察の追跡を受けたときには、60万円の懸賞金がかけられたといいます。 同じ1933年5月には蒋介石と会い、洛陽の軍官学校に朝鮮人のための訓練班を設けることで合意しました。
危険は仲間の内側からも来ました。1938年5月、湖南省長沙の楠木庁で、朝鮮革命党の党員に銃撃され、心臓のそばに弾を受けたのです。その後遺症で字が震えるようになり、その筆跡は「弾丸体」と呼ばれたと伝えられています。 それでも彼は運動の中心に立ち続け、1940年3月に臨時政府の主席に選ばれ、翌月には綦江で韓国独立党を統合して結成し、その中央執行委員長になりました。 解放後の1947年には、自伝『白凡逸志』が出版されています。
解放と分断への反対
1945年11月23日、金九ら15人は、政府としてではなく個人の資格で帰国するという条件を受け入れて金浦空港に到着しました。 朝鮮半島は北をソ連軍、南を米軍が占領していました。金九は同年12月のモスクワ三国外相会議で示された信託統治案に反対し、李承晩とも対立しました。 1948年4月には平壌を訪れて金日成と統一について協議しましたが合意には至らず、同年の南北それぞれの単独政府の樹立に反対しました。
暗殺と残る疑問
1949年6月26日、金九はソウルの私邸・京橋荘で、陸軍将校の安斗熙に撃たれて亡くなりました。 安斗熙は、金九をソ連の手先とみなしたためだと述べています。背後関係はいまも完全には解明されていません。1992年に公開された安斗熙の告白では、李承晩政権の治安責任者・金昌龍の指示があったとされ、2001年に機密解除された文書では、安斗熙が米陸軍の対敵諜報部隊のために働いていたことが示されました。ただし、その証拠の評価には異論もあります。
葬儀は大韓民国で最初の国民葬として行われ、ソウルの孝昌公園に葬られました。 1962年には建国勲章が追贈され、2002年にはソウルに白凡金九記念館が開館しています。
金九で学ぶ日本語表現
| 表現 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| 亡命する | 国外へ逃れて活動する | 多くの人が中国へ亡命した。 |
| 責任を負う | 自分の責任として引き受ける | 彼はすべての責任を負うと述べた。 |
| 一介の庶民 | 特別な身分のない普通の人 | 号には一介の庶民という意味がある。 |
| 謎が残る | まだはっきりしない点がある | 事件にはいまも謎が残る。 |
| 転換点 | 大きく変わるきっかけ | 1945年は大きな転換点だった。 |
練習: 自分の国の歴史の転換点を一つ選び、日本語で三文書いてみましょう。「転換点」と「謎が残る」を使ってください。