広開土王(好太王)とはどんな王?高句麗を東アジアの大国にした王と碑文の謎
広開土王(374–412)は高句麗の第19代王。南北への遠征で国を大きく広げ、息子の長寿王が建てた巨大な石碑にその事績が刻まれています。
広開土王(クァンゲトワン、好太王とも)は、古代朝鮮の王国・高句麗の第19代の王で、391年から412年まで在位しました。わずか20年ほどの治世で、朝鮮半島中部の漢江流域から遼東地方まで勢力を広げ、高句麗を東北アジア有数の強国にしました。 韓国で「大王」と呼ばれる王は、彼とハングルを作った世宗の二人だけとされます。 彼について多くのことがわかるのは、息子が墓のそばに建てた高さ6メートルを超える石碑のおかげです。
まず地図から:高句麗とは
4–5世紀の朝鮮半島と満洲南部には、北の高句麗、南西の百済、南東の新羅という三つの王国があり、南部には加耶と呼ばれる小国の連合がありました。これを「三国時代」と呼びます。西には中国や草原地帯の諸王朝があり、海の向こうには、当時の文献で「倭」と呼ばれた日本列島の人々がいました。
三国のうち最も広く、軍事力も強かったのが高句麗です。広開土王の時代の都は、現在の中国吉林省集安市の近く、鴨緑江のほとりにありました。
危機の中で生まれた王子
広開土王は374年に生まれ、名を高談徳といいました。父は故国壌王で、祖父の故国原王は371年に百済との戦いで命を落としています。
391年、17歳ほどで即位すると、独自の年号「永楽」を用い、「太王」を名乗りました。独自の年号を使うことは、高句麗が中国の王朝と対等であるという意思表示だったとされます。
南への遠征:百済との戦い
最初の大きな標的は、祖父の仇である百済でした。392年には4万の兵で攻め込み、10の城を落としたと伝えられます。 その後、現在のソウル近くにあった百済の都・慰礼城まで進み、百済の阿莘王は降伏して王子と大臣10人を人質として差し出しました。 この勝利の年は資料によって395年とも396年ともされています。
新羅への援軍
400年ごろ、新羅は百済・加耶・倭の連合に対抗するため、高句麗に援軍を求めました。広開土王は5万の兵を南に送ったとされます。 402年には、高句麗にいた新羅の王族・実聖を帰国させ、王位につけました。 404年には、旧帯方郡の地域で倭の攻撃を退けたと記録されています。
北と西へ:遼東の確保
395年ごろには遼河流域の契丹の一派を討ち、398年には北東の粛慎を服属させました。 最大のライバルは、鮮卑の慕容氏が華北に建てた後燕でした。高句麗は400年の攻撃を防ぎ、402年に後燕の城を奪い、405年・406年の攻撃も退けて、遼東地方全体を手に入れました。 410年には北東の東扶余にも出兵しています。
一方で、393年に平壌に九つの寺を建てたとも伝えられ、仏教の保護にも力を入れました。 412年、38歳ほどで病により亡くなり、病名はわかっていません。後を継いだ息子の長寿王は、79年という長い治世を送りました。
広開土王碑:高さ6メートルの歴史書
414年、長寿王は父の墓の近くに記念碑を建てました。一枚岩の花崗岩でできていて高さは約6.39メートル、全文が漢文で書かれ、文字数は数え方により1,775字とも1,802字ともいわれます。 内容は、建国者・朱蒙(鄒牟)の神話、広開土王の遠征の記録、そして王墓を守る「守墓人」の一覧の三つに分かれています。
碑は長く忘れられていましたが、1876年ごろに地元の役人が泥と草木に埋もれているのを見つけました。1882年には草木を焼き払ったため表面が傷み、1883年には日本の陸軍将校・酒匂景信が碑文の写しを手に入れています。 2004年にはユネスコの世界遺産の一部となりました。
「辛卯年」の一文をめぐる議論
391年に関わる「辛卯年」の一節は、多くの研究を生んできました。碑文には句読点がなく、判読できない文字もあるため、読み方が一つに定まらないからです。日本の研究者は伝統的に「倭が百済・新羅を臣民とした」と読み、韓国の研究者は主語を高句麗と読むことが一般的です。
1972年には、碑文が石灰で意図的に改変されたという説が出されました。しかしその後、1881年以前に作られた拓本が中国の研究者によって見つかり、中国の研究者の多くと、韓国・日本の一部の研究者はこの改ざん説を採っていません。 古代の文字資料を読むことの難しさと、研究者たちが互いの根拠を検証し合う姿がよくわかる例です。
なぜ「広開土」なのか
「広開土」という名前は、文字どおり「土地を広く開いた」という意味で、その治世をひとことで表しています。漢江流域から満洲を経て遼東半島に至る範囲が彼の時代の高句麗の勢力圏で、さらに広い範囲に影響が及んでいたと考える研究者もいます。 ただし、兵力や攻め落とした城の数などは後代の記録や碑文によるもので、細かな数字には慎重に向き合う必要があります。
彼の物語を読むと、古代東アジアが、いくつもの王国や民族が同盟と対立をくり返す、非常に流動的な世界だったことがわかります。現在の国境線をそのまま当てはめずに読むことが、この時代を理解するこつです。
現代の韓国での広開土王
韓国では国民的な英雄で、海軍の駆逐艦「広開土大王級」に名前が使われ、ソウル近郊の九里市には銅像と碑の複製があります。 2007年のドラマ『太王四神記』などにも描かれました。
広開土王で学ぶ日本語表現
| 表現 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| 即位する | 王の位につく | 広開土王は391年に即位した。 |
| 勢力を広げる | 支配する範囲を大きくする | 高句麗は遼東まで勢力を広げた。 |
| 援軍を求める | 助けの軍隊を頼む | 新羅は高句麗に援軍を求めた。 |
| 読み方が分かれる | 解釈が人によって違う | この一文は読み方が分かれている。 |
| 後を継ぐ | 前の人の地位や仕事を引き受ける | 息子の長寿王が後を継いだ。 |
韓国語のことばも少し:왕(ワン・王)、비석(ピソク・石碑)。
練習:「即位する」と「後を継ぐ」を使って、知っている王や社長について二文書いてみましょう。