『東医宝鑑』を書いたのは誰?朝鮮王朝の御医・許浚の生涯
『東医宝鑑』は朝鮮王朝の御医・許浚(1539–1615)が編んだ全25巻の医書。1610年に完成し、2009年にユネスコ記憶遺産に登録された。
『東医宝鑑(とういほうかん)』を書いたのは、朝鮮王朝の宮廷医・許浚(ホ・ジュン、1539–1615)です。1596年に編纂の中心となり、1610年に全25巻を完成させ、1613年に初めて刊行されました。 書名は「東洋医学の貴い鏡」といった意味で、2009年にはユネスコの「世界の記憶」に登録されています。 この記事は医学の歴史として許浚を紹介するもので、医療上の助言ではありません。
朝鮮王朝という時代
朝鮮王朝は1392年から1910年まで続いた王朝で、都は漢陽(現在のソウル)でした。社会は朱子学の考え方と厳しい身分秩序で成り立っていました。上には学者官僚である両班がいて、その下に通訳・会計・医師などの専門職からなる「中人」という層がありました。医術は技能として尊重されましたが、医師の地位は高級官僚ほどではありませんでした。
中人として生まれる
許浚は1539年、現在のソウル江西区にあたる地域で、陽川許氏の家に生まれました。 母が側室だったため、両班ではなく中人に分類され、進める道は限られていました。 医学はその中で開かれていた道の一つでした。
若いころの修業については確かなことがほとんどわかっていません。厳しい師のもとで学び、病気の子どもを救ったのち師のもとを離れた、という小説やドラマで有名な話には確かな典拠がなく、虎や蛇に変えられた王女が登場する話は民話とされています。
推薦で開いた宮廷への道
許浚が宮廷の医療機関である内医院に入ったのは1569年で、柳希春と洪曇という官僚の推薦によるものでした。 父の許碖は龍川の府使を務めた人物です。 生まれた年については、古い資料では1546年や1543年とされたこともありましたが、今では1539年とする説がとられています。 側室の子として生まれたのかどうかについても議論があり、生い立ちには今も確かめきれない部分が残っています。
王の医師として
宮廷での経歴は比較的よく記録されています。29歳で宮廷医となり、のちに王室の医療機関である内医院で働きました。 1575年に宣祖を診察し、1590年には王子の天然痘を治した功で昇進しています。
1592年、日本軍の侵攻によって壬辰戦争(文禄・慶長の役)が始まり、1598年まで続きました。多くの官僚が王のもとを離れるなか、許浚は宣祖のそばにとどまり、1596年に高い位を授けられました。 1600年には内医院の首医となっています。
戦乱の中で始まった編纂
1596年、内医院の主だった医師たちが新しい医学全書の編纂を始め、その中心に許浚がいました。 1597年の再侵攻で作業は中断しましたが、のちに許浚が引き継ぎます。 完成までにはおよそ15年かかりました。
1608年に宣祖が亡くなると、許浚は責任を問われて流罪になりました。翌年、光海君によって復帰し、1610年に『東医宝鑑』を完成させます。 また、漢文を読めない人も使えるよう医書をハングルに訳し、薬草の名前もハングルで記しました。
功臣の称号と反発
1590年に王子を救った功で高い位に上がったとき、朝廷の官僚たちからは反対の声が上がりました。 壬辰戦争で宣祖に付き従った功績により、1604年には功臣として表彰され、陽平君に封じられています。 このときも、いくつかの昇進には官僚たちが異を唱えました。1608年に宣祖が亡くなると職を解かれて都の外へ追放され、1609年に赦されて、1611年に内医院へ戻りました。
ハングルの医書とその後
許浚は『東医宝鑑』のほかにも、漢字が読めない人のための医書を残しました。天然痘を扱う『諺解痘瘡集要』、出産にかかわる『諺解胎産集要』、急病の手当てをまとめた『諺解救急方』などです。 許浚は1615年10月9日、77歳で亡くなりました。 墓は京畿道坡州の、南北の境界にある非武装地帯の中にあります。 ドラマに登場する師・柳義泰が創作の人物であることや、伝わる肖像画が本物かどうかも、議論の的になってきました。
『東医宝鑑』の中身
全25巻は、内景篇(内科)、外形篇(体の外側)、雑病篇(子どもや女性の病気を含むさまざまな病)、湯液篇(薬)、鍼灸篇の五つに分かれています。 病名ではなく体の部位ごとに症状と処方をまとめた構成は、当時としては画期的だったと評価されています。 この本は、朝鮮と中国でおよそ2000年にわたって積み重ねられた伝統医学の知識を一つにまとめたものだと説明されています。 朝鮮の医書としては、1433年に編まれた『郷薬集成方』と並べて語られることも多い一冊です。 2013年には英語にも翻訳され、韓国の外の読者も全体を読めるようになりました。
海を渡った医書
『東医宝鑑』は日本と中国でも刊行され、日本では1724年、中国では1763年に最初の版が出ました。 2009年の登録の際、大韓医師協会は「歴史的な記録としての評価であり、伝統医療の効果を認めたものではない」という趣旨の見解を示しました。 古い医書は、過去をのぞく窓として読むのがよさそうです。許浚は1615年に亡くなり、2005年にはソウル江西区に許浚博物館が開館しました。
許浚で学ぶ日本語表現
| 表現 | 意味 | 例文 |
|---|---|---|
| ライフワーク | 一生をかけた仕事 | 『東医宝鑑』は許浚のライフワークだった。 |
| やり遂げる | 最後まで終える | 戦乱の中でも編纂をやり遂げた。 |
| 中断する | 途中で止まる | 作業は再侵攻で中断した。 |
| 引き継ぐ | 前の人の仕事を受けて続ける | 許浚が編纂を引き継いだ。 |
| 時代を超える | 長い時間がたっても価値が残る | 時代を超えて読まれる本だ。 |
練習: 自分が長い時間をかけてやり遂げたこと、またはやり遂げたいことについて、「やり遂げる」と「中断する」を使って日本語で三文書いてみましょう。